麒麟がくる 大桑城 斎藤妙椿(さいとうみょうちん)(29) | 山羊のソラくん

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5月4日に、生後1ヶ月の山羊ちゃんが我が家に婿入りしてきましたので成長を紹介していきます。

29、斎藤妙椿(さいとうみょうちん)

 

 応仁の乱が始まる少し前のこと、美濃では守護の跡取り問題が浮上していました。

 

 

 

当時の守護、7代「土岐持益」には子はありましたが早世し、後継を誰にするかが問題となっていたのです。

 

結果的に8代守護となったのは養子として迎えられた 成頼でした。

 

彼の出自については諸説がありはっきりしません。が、成頼は土岐家を相続した時まだ15歳。

 

時の守護代斎藤利永は守護を後見する立場となり、土岐・斎藤氏を中心とした美濃の経営が継続されてゆきます。

 

 

 一方京都では、室町幕府内で権力争いが激化していましたが、1467年にはついに、各地の勢力を東西2分して争う応仁の乱が始まり、京都は焼け野原と化しました。 

 

 

 

そしてこの応仁の乱の頃には、斎藤利永の後を継いだ斎藤妙椿(さいとうみょうちん)が守護土岐成頼を補佐し、守護代として美濃国内を仕切っていたのでした。

 

 

 この斎藤妙椿、歴史の教科書には登場しませんが、ものすごい大物だったようです。

 

彼は元々僧籍に身を置く者で、教養も高く文武両道に秀で、当時一流の文化人と交流があったようです。

 

また、軍事的にも周辺諸国に影響力を持っていました。

 

 

 

 応仁の乱では「東西両軍の勝敗は妙椿の動き次第だ」とある人が記しており、1474年に東西両軍が和睦しようとした際には、妙椿の意によりそれが叶わなかったといいます。

 

 

 

 

1477年には乱も終息し、日野富子(ひのとみこ)の子「足利義尚」(あしかがよしひさ)が将軍に落ち着いたのですが、成頼と妙椿は、義尚と対立して将軍継承を主張していた「足利義視」(あしかがよしみ)という重要人物を伴って美濃へ帰ります。

 

妙椿の実力がいかに絶大であったかがうかがえます。

 

 

 

 妙椿ば没した時、都では「これでやっと平和が訪れる」とささやかれたようです。

 

 

都や他国での妙椿の評判は良くなかったよですが、美濃の人々にとってはどんな存在だったのでしょうか。

 

彼の守護代在任中は他国の侵略をよくくい止め、美濃国内は政治的に安定していたようです。

 

 

「外には牙を」「内には笑みを」

対外的には評判の悪い妙椿だったようですが、混迷の時代に人々を導くリーダーに与えられた評価というものは案外そうしたものなのかもしれません。

 

 

 

斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将斎藤宗円の子または弟

https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤妙椿

 

土岐 成頼(とき しげより)は、室町時代から戦国時代武将守護大名美濃守護。土岐氏第11代当主https://ja.wikipedia.org/wiki/土岐成頼

 

斎藤 利永(さいとう としなが)は、室町時代武将美濃守護代

https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤利永

 

日野 富子(ひの とみこ)は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍足利義政正室

https://ja.wikipedia.org/wiki/日野富子

 

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍

https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義尚

 

足利 義視(あしかが よしみ)は、室町時代武家室町幕府6代将軍足利義教の子

https://ja.wikipedia.org/wiki/足利義視

 

<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)>