静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 清龍寺 松平信康廟 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

神社仏閣を参拝しております。
休みを利用し、地方にも遠征をしております。

最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

清龍寺には、松平信康の廟があります。

どうする家康では、細田 佳央太が演じておりました。

 

image

信康廟の手前には、三方原の戦いで亡くなった青木貞治の墓などあります。

松平信康とは

近世初期、三河岡崎城主。徳川家康の嫡子、2代将軍秀忠の兄。母は正室関口氏築山殿。幼名竹千代、通称次郎三郎。1567年(永禄10)9歳で織田信長の女織田氏徳姫と結婚。70年(元亀1)家康が新領土遠江に進出し、引馬を居城とする際、在来の家康の城地三河岡崎城が与えられ、岡崎次郎三郎信康と称した。信康は性剛直で武勇に優れ、よく家康を助けた。1575年(天正3)9月、家康が大井川で武田勝頼と対峙し、陣を引こうとしたとき、信康は危険の多い殿を望み、任務を遂行したことなど、よくその人柄を表している。79年夏、信康の室織田氏徳姫は、築山殿と信康とについて罪状12か条を記して父信長に送り、信長は家康の老臣酒井忠次にその真偽をただしたが、忠次が弁疏しなかったので、信長は両人の処罰を命じたという。その罪状は両人が勝頼と通じて信長に敵対しようとしていたとされている。信長に背くだけの力のなかった家康は、築山殿を切り、信康に自尽を命じた。同年9月15日信康は遠州二俣城で切腹した。21歳。信康が勝頼と通じていたとする根拠は薄く、また人柄が粗暴で諸人は恐れていたとする伝えも信じがたい。葬地は遠江清滝寺。

 

流石に、非公開でした。