東京都足立区東伊興   易行院  五代目圓楽墓所 | 神社仏閣巡礼日記と墓マイラー日記

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休みを利用し、地方にも遠征をしております。

最近は、歴史上の人物の墓や著名人の墓参りが主に成りつつあります。
基本的に、神社仏閣巡りの方•墓巡りの方のみ承認します。
スピリチュアル系は、拒否しますのでご承知下さい。

今回は、笑点 四代目司会者 五代目圓楽さんの墓参りです。

 

易行院は、圓楽師匠の実家です。

墓誌
日本航空ニューデリー墜落事故で犠牲となった、客室乗務員で五代目圓楽の妹 吉河信子の供養観音が建てられている
三遊亭圓楽とは
生家は東京・浅草の易行院助六寺で、9人きょうだいの四男。昭和30年6代目三遊亭円生に入門して全生。33年二ツ目となり、37年29歳で5代目円楽を襲名して真打ちに昇進。2代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(没後は8代目橘家円蔵)、立川談志と“四天王”と呼ばれ、次代の落語界を担う逸材と目された。42年にスタートしたテレビ演芸番組「笑点」の大喜利コーナーに初代メンバーとして出演、端整な顔立ちから“星の王子様”“湯上がりの男”を自称し、人気を博した。43年にはドラマ「笑ってよいしょ」に主演、博識でもあり、バラエティ番組などにも積極的に出演して噺家タレントブームを牽引したが、52年師匠の言葉に従い落語に専念するため、「笑点」を含むレギュラー番組全てを降板。53年師匠が真打ち昇進制度を巡って落語協会執行部と対立し協会脱会を表明すると、総領弟子として“協会に残って弟弟子の面倒を見てくれ”という師匠に“師匠の芸が好きで噺家になったのだから師匠について行きます”と答え、落語三遊協会結成に参加。59年師匠急逝により弟弟子が落語協会に復帰する中、55年自身は直弟子と大日本落語すみれ会を結成し協会へは戻らず、独自の道をとった。60年落語円楽党、平成2年円楽一門会と改称。寄席には出演できないため、昭和60年私財を投じて寄席ビル・若竹を建設したが、平成元年には閉鎖。この間、昭和57年「笑点」大喜利コーナーの司会者を務めていた三波伸介の急逝により、58年4代目司会者として「笑点」に復帰。桂歌丸や弟子の三遊亭楽太郎に馬面を揶揄されるやりとりや、“山田君、例のものを皆さんに配ってください”“山田君、座布団全部持っていきなさい”“と、いったところで「笑点」はお開き、また来週のお楽しみ、ありがとうございました”といったおなじみの台詞で“日曜日夕方の顔”として定着。テレビと落語を結びつけた功労者で、最も知名度のある落語家の一人となった。平成17年落語協会からの脱会騒動以来、27年ぶりに寄席に登場したが、同年脳梗塞に倒れ、18年4月には23年間務めてきた「笑点」大喜利コーナーの司会を退く。19年2月国立名人会で十八番の「芝浜」を演じたが、高座の出来に満足できず、引退を表明。同年3月日本テレビ系「いつみても波瀾万丈」を最後にテレビ出演も引退した。晩年は胃がんや肺がんも患い、21年76歳で亡くなった。「中村仲蔵」「浜野矩随」など、繊細な描写の人情話や教訓話を得意とした。弟子に三遊亭鳳楽や、「笑点」大喜利メンバーである楽太郎、三遊亭好楽らがいる。著書に「円楽、親父を叱る」などがある。戦国大名・毛利家の家臣で、鳥取城防衛で有名な吉川経家の末裔を称した。
 
南無阿弥陀仏