スッタニパータ 並ぶ応答ー長篇896の解説 | suttanipatacomのブログ

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suttanipata.com管理者がスッタニパータ(ブッダのことば)をわかりやすく現代風に解説

896 (たとい称讃を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は(称讃と非難との)二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

 

たとい称讃を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。論争の結果は称讃と非難という人間的思考の運動である二つだけである、とわたくしは説く。この道理を見ても、汝らは、人間的思考の運動(称賛⇔非難)を制した無論争の境地を安穏(あんのん)であると観じて、論争をしてはならない。

 

 

 

無論争の境地とは何か?人間は、論争に及ぶとき、そこには人間的思考の運動による両極端の一方的な見方がある。同じ見方のものたちを称賛し、違う意見のものを排除しようとする。すなわち両極端の道なのである。その両極端の思考を制した無論争の境地、それは、中道である。それは、運動することはなく、運動する前に現象をありのままに捉える。それが中道なのである。人間は、現象を瞬間的に両極端に分けてしまうが、聖者は、その現象をエネルギーとして感じ、そのエネルギーは両極端の方へは流れない。そのまま捉え、そのエネルギーを観察する。そうしてそのエネルギーはただ、生起して消滅するのみなのである。ありのままに捉える聖者には両極端の激流はなく、中道を歩み、ありのままに捉えて、遂には、真理を悟り、安穏を観たのである。