794 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。
かれらは、何かを得るために、はからいをなすことなく、両極端に分ける事もないので、何物かを特に重んずることもなく、何かを得たように「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。人間的思考の運動(信⇔擬)によって結ばれた執着のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起こすことがない。
人間の「これだ」と思う気持ち、それは人間的思考の運動である。「これだ」と思い心の中で歓喜するのである。歓喜は人間的思考の運動による高ぶった気持ちであるから、運動によってその歓喜は落胆へと変化する。これを繰り返すのみである。聖者は、歓喜することなく、心はうろつくことなく、寂静にして、じっと真理を観る。そうしては智慧を得る、その知見によって、平然と知るのみである。かれの心は常に平坦であり運動しない。そのようにして安穏を観たのである。