791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
人間的思考の運動(信⇔擬)の反応の仕方によって、前の師などを捨てて後の師などに依存し、煩悩による両極端の動揺に従っている人々は、人間的思考の運動がもたらす執着をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てると言う運動を繰り返す。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。常に運動の範疇に存在し、その運動から脱することが出来ない。
修行者は、依存するものを作ってはならない。それはたとえ師であってもである。この世は無常であるから、どのように素晴らしい師であっても、いつまでも存在するわけではない。この世で依存する存在それは、激流に浮かぶ泡の如く脆くも崩れ去るのみである。師を変えたところで、運動が止まるわけではない。また、師によって止まるのではない。自らが、よく気をつけて、自らの運動を制して、自らの前に広がる真理(法)或いは、自らを観察して、得た智慧によって自ら法(真理)を知ることによってのみ覚ることができるのである。他人に聞くのではない、書物で見るのでもない。この自らが見て知る知見をよりどころとして、修行者よ遍歴するのだ。