私は自分が生まれた樺太太平と両親が味わった苦悩を確認したいと思い、生前両親から聞いた話やその後自分で調べた事柄を参考に「ソ連軍からの逃避行」を下記に纏めてみた。

「ソ連軍の攻撃から逃れて」

 昭和20年8月16日早朝、樺太の恵須取町太平の教員住宅のトイレの窓から私の父は塔路浜方向に打ち込まれる艦砲射撃を花火のように綺麗だと思い眺めていたと言う。 昭和20年8月15日には日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終わっていたはずだった。
 ソ連は1945年4月に日ソ中立条約の不延長を宣言し、対日参戦の準備をしていたが、長崎、広島に原爆が投下されると予定より早く、8月8日対日宣戦布告、8月9日満州侵攻開始、8月10日南樺太に侵攻作戦を開始していた。日ソ不戦条約の有効期限はまだ半年程残っていた。 8月15日で戦争は終わるはずであったがソ連軍は侵攻作戦を止めなかった。
 ソ連軍の塔路浜上陸を知った父は自分は義勇兵としてここに残り、戦うので母には子供を連れて実家のある豊原に逃げるよう促したと言う。 おなかの中に6ヶ月の私を宿していた母は父の上司の奥さんと一緒に幼い私の姉(2歳)をつれて豊原へ向かった。豊原までの経路や詳しい状況は聞いたはずだが良く覚えていない。地図で見ると250km程あり、鉄道などは東海岸にしかない。途中運良く知り合いか誰かの馬車に乗せてもらい無事豊原までたどり着いたと聞いた。豊原では父の実家で兄が一人留守を守っていたらしい。他の家族はいち早く内地へ引き上げたそうだ。そこで、一緒に逃避した父の上司の奥さんと暫くお世話になることになった。
 ソ連軍はその後真岡港、大泊港に上陸し、8月25日正午をもって樺太は完全に占領され樺太の戦闘は終息した。 豊原の家に、ある夜ソ連兵が上がり込んできて「女を出せ!」と叫んだという。母は生きた心地もしなく隠れていたが、父の上司の奥さんが「あなたはまだ若いから見つかると大変だ。私が出て行くからあなたは隠れていなさい。」といって身代わりになってくれたという。 ソ連軍には慰安所がなく、現地の住民への強姦が許されていたのだ。満州では被害者の10人に2、3人は舌を噛んで死んでいるという悲惨さだったと聞く。
  終戦5日後の8月20日にソ連軍が上陸した真岡では、真岡郵便局の電話交換手であった若い9人の女性が最後まで職場に残留して任務を続け、ソ連軍が押し寄せるのが見えたとき9人は用意していた青酸カリを飲んで自殺した。ソ連軍は強姦するという話は現地の人々の間ではすでに知れ渡っていたことだった。⇒真岡郵便局交換台9人の乙女
 8月16日~9月23日頃までの間父と母はばらばらになり生死不明であったが、約1ヶ月後連絡が取れ、父が途中まで迎えに来て太平の教員住宅へ戻った。家に帰った時、机の上に母と姉の写真が飾ってあり、おはぎが供えてあった。父は二人はもう死んでおり、生きて会えるとは思っていなかったと言うことであった。 父は義勇兵として志願したが、軍隊は撤退しており参加できなかった。その頃そこで母の妹と出会い、二人で豊原へ行こうと徒歩で南下を始めたが、途中何度もソ連軍の航空機から機銃掃射を受け必死で逃げたと聞いた。 その後逐次状況が分かり、幸い親族は皆無事で居ることが分かったという。 樺太の日本人は皆内地へ引き上げることになり、親族も逐次引き上げていったが、父と母は教師であった関係で残った日本人等の子供の教育のため最後まで樺太に残留させられた。私が生まれ弟が生まれ、私が3歳の時にやっと引き上げることが出来た。