昭和21年1月10日、私は樺太恵須取郡恵須取町大字太平字太平29番地で生まれた。
正確には、その日に生まれたと私の父が昭和24年8月4日に某県某郡某町長へ届け出て、同日受付されたと戸籍に記録されている。その後、本当の誕生日は昭和20年12月29日であることが判った。母に理由を聞いたところ、当時の年齢は数え年であり、生まれて3日後に2才なるのは可哀想だったからと教えてくれた。終戦後の混乱した外地で、しかも年末の慌ただしい時期だったからばかりではなく、当時はそんないい加減なものだったらしい。私には同じ年のいとこがおり、小学生の頃「おまえの誕生日は12月じゃないの」と言われて分かったものである。
3才の頃(昭和24年7月25日)私の一家(父31才、母29才、姉4才、私、弟1才) の5人は樺太の真岡港から函館港へ引き揚げ、父の実家(本家)のあった某県某町に移ってきた。
今は樺太での出来事は全く記憶に残っていない。母の生前、母からソ連軍の攻撃を逃れて恵須取から豊原まで避難したときの様子など何度か聞いたのだが、書き留めて記録したいと想いつつ出来ないまま母は冥土へ旅立ってしまった。今となっては私の断片的な不明朗な記憶しかない。
引き揚げ船に乗るとき、私と弟は「はしか」に罹っていたらしい。それが乗船前に判ると船には乗せてもらえず、残れば樺太には薬もなく、ソ連の医者では助からない場合が多かったらしい。船に乗れば日本の医者がおり、薬もあるから必ず助かると信じ、父母は私と弟を毛布でくるみ隠すようにしてやっと乗船出来たそうである。
その後、私の両親には様々な苦労があったようであるが、子供達には幸せな生 活だった記憶しかない。私が小学校2年生の時、父が町営住宅の入居権のくじを引き当て小さな一戸建てで2Kの町営住宅に入居することになった。出窓の片隅に本棚として使っているところがあり、そこに古びた厚さ15センチほどの辞書が置いてあり、いつも気になっていた。価格は25円と書いてあった。これは何かと母に尋ねるとそれは樺太から引き上げるとき持ってきたただ一つの財産だと言っていた。引き揚げ時に持参できる物は限られていた。教師であった両親にはそれが一番の宝物だったのだろう。その辞典も今は何処にあるか見あたらない。
平成16年1月1日母は亡くなった。その1週間ほど前、母は病院のベッドの中で私に頼みがあると言った。自宅の押し入れの天袋に風呂敷包みがあり、中に子供達の古着のオーバーがある。それは樺太から故郷の町へ丸裸で引き揚げてきたのち、やっと買うことの出来た私達子供の外套だと言う。捨てるに忍びずずっと仕舞っておいたらしい。頼みというのは、母のお棺の中にそれを一緒に入れて欲しいと言うことだった。家へ帰って確認してみると、見覚えのある半ばすり切れた小さな子供用の外套が3着包んであった。その外套も母と一緒に灰になった。

