[ボルネオ猫町] クチンあれこれ

[ボルネオ猫町] クチンあれこれ

東マレーシア・ボルネオ島はサラワクの州都クチン、Cat Cityで日本語を学ぶ人たちのブログです。

Amebaでブログを始めよう!

自己愛は純粋な心からの真実の愛の形です。それは自尊心ともいいます。若者は衝動的で、よく友達の悪い行動に影響を受けるから、自己愛、または自尊心は、若者にとって大切なことです。自己愛がなかったら、衝動を抑えることができなくなって、悪い選択や行動に導かれます。自尊心は私たちの周りの全てを愛してこそ可能になります。

 

私の主張はおかしく思われるかもしれません。自己愛はふつうよくないものだと思われていますから。自己愛が強過ぎれば、自己中心的になります。自己中心的な人は周りの人の感情と欲望を気にしません。また、自尊心が強過ぎると、自信が自信過剰に退化します。自信過剰な人は悪い選択をして金を失ったり、無理なアイデアに時間を費やして無駄にしたりします。そして、自己愛が強過ぎたら、ナルシストになります。ナルシストはいつも自分の外観を気にして、周りの人を無視し、共感がなく、みんなに嫌われます。

 

しかし、自尊心という形の自己愛は重要です。若者たちは将来の社会を担う者になります。社会を担う者は必ず環境と権利のために闘います。そのとき、自尊心は情熱の炎に燃料を与えます次に、自尊心は自信を上げます。自信は成功のために大切なことで、自信がある人は仕事に成功する可能性が高いです。自分を信じる若者は素晴らしい結果をもたらします。そして、自尊心があったら、若者はよく気を付けます。自尊心がある人はいつも自分の健康と行動に注意します。

 

自己を愛するためには、生活からネガティブなことを除かなければなりません。ネガティブさを捨てる方法は何でしょうか? まず初めに、悪い習慣を捨てて、意地悪な人と関係しないようにします。ネガティブさは精神衛生に悪い影響があり心を傷つけます。自分を損なうことをしないのが自尊心のやり方です。たとえば、麻薬に溺れたり、悪い人と交わったりして自分の名誉を傷つけるのは、全部自分に危害がある行動です。

 

若者はどうやって自己を愛するのでしょうか? 自分を愛するためには、自分を尊敬できなければなりません。どうやりますか? まず、自分の良心の声を聞いて、自分の願いをよく知ること。疑問があれば、大人たちの助言を聞きます。もう一つの方法は、自分の過去のまちがいから学習して、自分を受け入れること。自分を責めるのは駄目です。自分を責めるのは、劣等感の種を育てて、自信を失わせてしまいます。自分を信じることができない、失敗おそれ、なにかをする意欲が減ります。いろいろなアニメのキャラは、味方が死ぬと、自分を責めて、弱くなります。しかし、嫌な経験から学んだ教訓によって、自分を改善します。

 

そうです、私はこれらのことをアニメから学びました。自己愛が自己中心的になる例は、たとえば「鬼滅の刃」の悪党鬼舞辻無惨です。彼は自分の病気を癒す薬を手に入れるために、「鬼」という部下を作りましたが、その部下は人を喰わなければならないので、無数の民間人が殺戮されました。逆の例は、たとえば「ダーリング・イン・ザ・フランキス」のゼロツー。彼女はいつもみんなに化け物と呼ばれて、自分が劣っていると思って、自尊心を失い虚無主義に陥っていましたが、でも、彼女の心が主人公に開くと、自尊心を得て、もっと優しい人になりました。あるいは、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部の唯一の女性トリッシュ・ウナは、初めは怖がりで自信がない哀れなキャラですが、ひとりで敵と戦っていくうちに自信が膨らんで、敵を倒すことができました。よいアニメは私たちの教科書です。

 

自尊心、または自己愛は若者にとっていちばん大切なレッスンです。自信があれば、この迷宮のような複雑な世界の中を航行することはもっと簡単になり、将来成功した大人になるための貴重なモラルを手に入れることができます。自尊心のモラルは、人生からの挑戦を受けたとき、自尊心から学んだモラルがあれば、きびしい状況を乗り越えることができるでしょう。

(霧洲祐慈)

 

私の両親は新婚旅行の時初めて日本へ行きました。その時日本のきれいさに驚きました。町もバスもトイレもどこもとてもきれいでした。小さいころ両親が私を公園につれて行くと、いつもあちこちにごみが見えました。その時両親は日本で見た経験を話しました。「嘘ではないよ、本当に素晴らしい国だ。ごみ箱以外のところではごみは一つも見なかった」と言いました。だから、私が日本について最初に知ったのは、きれいな国だということです。

 

五年前、私は初めて日本へ行きました。その時驚かされたことは、日本のリサイクル文化です。私は数日ホテルに泊まって、数日は日本人の家を借りました。日本人の家に泊まった時、壁に貼ってあるごみの分け方についてのお知らせに目がとまりました。いろいろなごみの分け方と出し方が詳しく書いてありました。たとえば、コーラを飲んだ後、ボトルを水洗いして、乾かして、その貼っているラベル紙を剥がして、ボトルの上のふたをとって、別々のごみ袋に入れて、別々の日にそのごみ袋を出さなければなりません。面倒くさいと思いましたけれど、いま考えてみると、あれはとても便利で完璧な制度です。

 

いまのような科学が発達した時代でも、人間は地球温暖化の問題を解決できていません。南極と北極の氷はだんだん溶けています。人間は地球の破壊を止めなければなりません。リサイクルはいまの世界で一番大切なことです。でも、私の国は日本と違って、政府の回収車がありませんから、自分でリサイクル場へ運ばなければなりません。とても不便です。そして、多くの人はどんなごみが回収できるかよくわかりません。日本で回収できるものでも、私の国にその技術がなくて回収できないこともあります。日本では小学校からごみの分け方を教えています。法律がなくてもみんな自然に環境を守ります。だから、学校の教育もとても重要だと思います。

 

私は自分の国が日本のようになることを願って、いつもごみを勝手に捨てないようにしています。私の国はごみをわけるというポリシーがありませんが、私はいつも家のごみを分けて、一か月に一回自分でリサイクル場へ運びます。そして、スーパーへ行くときも、プラスチック袋を使わないようにリサイクルバッグを持っていきます。全国民がみんなそうすれば、いつか日本のようなきれいな国になると信じています。

(グレイスリン)

 

私はクチン出身です。クチンはボルネオのサラワク州の州都です。クチンの近くのセニアワンに昔日本人が残した神社の遺構があると新聞記事知り、先週見に行きました。そしていろいろおもしろいことわかりました。

神社の周囲やそのまわりの昔日本人の家があったところは、全部背の高いアブラヤシ農園になっているので、村の人案内がなければなかなか見つけられません。

でもなぜんなとこに日本神社の遺構があるのでしょうか。

第二次世界大戦が始まる前に、もうすでに日本人がクチンにいました。ヨリオカショーゾーもとしてクチンにここでゴムやなどをえたいと、サラワク政府に土地の使用権を申し込みましたが、残念ながら許可が出る寸前病気で亡くなりました。その後、弟のヨリオカショースケ彼の意志を継、ニッサ商会株式会社を創って、日本人と地元の人を雇用し、ここに農園を開発しました。

ショースケは兄のショーゾーを記念して、セニアワンにヨリオカ神社という小さな神社建てました。日本人がいた時期はセニアワンの繁栄時代です病院っていてクチン住民もそれをここへ仕事らしをめました

一度修理して屋根かけられているので、何とか神社の形を保ってますが、あちこちが腐り始め崩れかけいます。鳥居も寄生されて自然木に化しそうです。

戦後日本人が帰国させられたあとも、彼らに関する話が伝えられています。たとえば去った日本人埋蔵金していったとかの話ですまた、日本人はセニアワンを「ムアラ」と呼んでいたと村人は言っています。「ムアラ」はマレー語で「河口」の意味ですが、この場所は河口ではありません。これはたぶん日本語の「村」だと思います。

日本人は堤を築いて溜池を造り、田に水が引けるようにしたり、トロッコのレールを敷いたりしました。村にヨリオカ神社のほかにもStrong Roomという監獄みたいな倉など、いくつか遺物があります。村歴史を忘れないように、力尽くして保護したいと村長言いました。役所からの許可も得ないまま、村にある道標を全部「Seniawan Jepon(日本のセニアワン)に変えたほどです

村人の気持ちを知りもっと日本人にこの場所を知って見に来てほしいと思って、これを書きました。マレーシア人も含めて多くの人に知ってもらい、いっしょにこの神社を守ってほしいです。

(ヘンリー)

 

みなさん、あなたの母語は何ですか?日本人は日本語を、中国人は中国語を母語として話します。でも、私には母語がありません。外国人は言うかも知れません。「えー! マレーシア人は母語がないの? 冗談でしょう?」 しかし、それは本当のことです。

隣の国シンガポールを例に考えてみましょう。シンガポールは80%の人が中華系です。シンガポール語は彼らが作った言語です。彼らの言語は英語と中国語が混じり合った言語です。確かに英語を話すけれど、発音と文法は完全に中国語です。

たとえば、「A: :wei 妈妈, afterward buy me chocolate can bo? B: Aiyo cannot lah, very expensive die. A: Walao, don’t want then say don’t want la. Pattern banyak banyak.」 日本語では、「ねえママ、このチョコレート買って」「駄目、高すぎる」「買いたくないなら、そう言ってよ! 嘘ばっかり」。これは発音も文法も間違っています。中国語や福建語やマレー語がごちゃ混ぜですから。西洋人にこんな英語を聞かせると、「何それ? 意味が分からん! 英語を勉強しなさい!」と言うことでしょう。

私は英語と中国語と福建語とマレー語ができます。でも、本当に出来る言葉がありません。私の家族はマレーシアの中華系です。私の父は興化人で、母は潮州人です。しかし、私は興化語も潮州語も全然喋れません。私の家では三つの言葉を話します。英語と中国語と福建語です。加えて、マレーシアの教育制度の問題があります。たとえば、私は小学校は中華学校に通っていました。授業ではほとんど中国語と英語しか使いませんでした。でも、中学校ではマレー語と英語しか使いませんでした。その学校では中国語が必修ではなくて、課外活動でやっていただけです。その結果、半分くらいの生徒は中国語をやめました。中国語は一生懸命勉強しなければ非常に理解しにくい言葉です。漢字だらけですから。英語はかなりよく理解できます。しかし、イギリス人のようなレベルではありません。アカデミックな英語は理解できないかもしれません。マレー語は普通に話すことが出来ますが、上手ではありません。私の生活の中ではマレー語はあまり使っていません。

マレーシアにいろいろな言語がある結果、マレーシアの言語教育は混乱しています。しかし、マレーシア人には利点もあります。マレーシア人とって外国語の言語を勉強するのは非常にやさしいです。私の例をあげると、自分は中国語や英語やマレー語の経験があります。だから、漢字がわかり、英語やさまざまな言語の発音ができます。ただ、マレーシア人の苦手なことは文法の理解です。一方で、積極的にいろいろな外国語を身に着けることができます。私たちは小さい頃からさまざまな異文化を受け入れてきましたから、マレーシア人は新しい言語を勉強するとき、日本人よりうまく対応できます。

どんな言葉を勉強する時でも、最後に必要なのは勇気と意志です。強い意志があれば、不可能なことも可能になるでしょう。

(林高盛)

 

小さいときから折り紙が好きでした。私が作ったはじめての折り紙はひこうきでした。それがへやをよこぎってすいすいととぶのを見て、うれしくなりました。その日から、ひこうきや花、おもちゃ、むし、はこなど、いろいろな種類の折り紙の作りかたを学びはじめました。新聞から、としょかんの本から、ときには友達から、折り紙をならいました。

私の最初の折り紙の先生がきれいな日本の紙を使って私に折り紙を教えてくれたのを今もよく覚えています。色やパターンにとても感銘を受けました。

10年前そのころ、クチンで折り紙の紙を見つけるのはとても難しかったです。日本から輸入しなければなりませんでした。今はダイソーがあるからだいじょうぶです。

ふつう私はひまな時間があるときはいつでも折り紙をします。誰かをまっている間も、周りに紙がないか探して、折り紙をはじめますし、ストレスが大きいときにも心をしずめるために折り紙をします。夜眠ることができなかったら、おきだして眠くなるまで折り紙をします。

折るのがとても難しい折り紙を折るのが好きです。それをマスターするたびに、私に満足を与えてくれます。

私にとって折り紙は芸術の一種であり、日常生活の一部です。折り紙をするととてもリラックスできます。それは子どもから老人まですべての年齢層に適しています。それはあなたの心に活力を与えてくれます。

学校やショッピングセンター、大学やクラブのどこでも、日本紹介のイベントではいつでも折り紙イベントをやりたいと思っています。私の人生の一部として、折り紙は芸術と文化のよい形であるという私のメッセージを伝えたいと思うからです。

そして、ボルネオにも折り紙が好きな人がたくさんいることを日本の人たちに知ってもらいたいです。

(デイヴィッド)