2)大嘗祭論の一部/近世末から近代にかけての大嘗祭をめぐる学知のなかで | 斎藤英喜の 「ぶらぶら日記」

2)大嘗祭論の一部/近世末から近代にかけての大嘗祭をめぐる学知のなかで

(その2)

それで星野の大嘗祭をめぐる議論を見ると、

「第一義として皇祖の霊徳を肉体的に御継承遊ばされる御儀に拝察されると同時に、
我が陛下の御本質の御一端を拝し得たと確信してをります。」
 (「大礼諸儀及其の意義」宮内省『互助』昭和四年〔一九二九〕第九号)

といった感じで、「霊徳」を肉体的に継承するという視点は、折口の「天皇霊」の継承説と影響関係にあることは、あきらかです。

また神座・寝座(真床襲衾)についても、星野も、

「神の寝座が、大昔では陛下の御料否陛下が神としての御料と解すべき」
   (「大礼本義」昭和三年〔一九二八〕十一月七日付け『官報』)

と、「寝座」に天皇が座するという見解を示しています。

このように見ていくと、折口説は、星野説と共同研究みたいにあったのでは、とも考えられます。この点は、宮地正人氏も示唆されているところです(「天皇制イデオロギーにおける大嘗祭の機能」「歴史評論」492号、一九九一年四月。『天皇制と歴史学』再録)。


ちなみに、鎌田純一氏は、

「当時宮内省掌典であった星野の論は、正しく史料考証をしての論ではなく、折口もそれを検証することなく、それを基礎に主観的な論を出したものと見られる」(『平成大礼要話』)

と、両者ともども「荒唐無稽」な説と全否定です。

このように見てくると、折口の説は、けっして彼のオリジナルなもの、あるいは、よく言われる「詩人的な直観」による独創といったものとは、違うことも考えられます。

さらに興味深いのは、幕末の国学者の鈴木重胤(折口がもっとも高く評価した人物)のなかに、

「大嘗の時は卯日の祭儀にも〔…〕、八重帖を敷き坂枕を置き御衾を覆奉りて、神をも臥させ奉り天皇も臥させ給ふが礼儀にて御在し坐す……」(『日本書紀伝』二十九之巻、全集8、534頁)

というように、「御衾」に天皇も臥したことを述べています。(この点は、加茂正典氏『日本古代即位儀礼史の研究』が指摘されています)

こうした点から見ると、折口説は、けっこう同時代の神道学者の説、あるいは前代の国学者の説を踏まえたうえで提示されていることが見えてきそうです。


折口のオリジナリティは、この「御衾」のことをホノニニギの天孫降臨神話に結び付けて「真床襲衾」と名付けたことにありますが、大嘗祭の起源を天孫降臨神話に求める言説は、近世の平田篤胤以来のもの。明治四年の大嘗祭の神祇省告論も、その説の延長にあります。

   


こうした近世末から近代にかけての大嘗祭をめぐる学知のなかで、折口説が提示されたことを見逃してはならいでょう。

それでは、折口説は、昭和三年という時代性と、どう切り結ぶのでしょか。

以下つづく。次回で完結