1)大嘗祭論の一部/昭和三年の大嘗祭と折口信夫 | 斎藤英喜の 「ぶらぶら日記」

1)大嘗祭論の一部/昭和三年の大嘗祭と折口信夫

(その1)

いよいよ来週は、大嘗祭のクライマックス、大嘗宮の儀ですね。
前回にくらべて、今回はあまり議論にも盛り上がりに欠ける、という感じでしょうか

それで議論を盛り上げるために、いま書いている、大嘗祭論の一部をご披露。
長文なので三回の連載です。

あらためて平成二年のときは、なによりも、それまで「定説」のように君臨していた折口信夫の真床襲衾説・天皇霊継承説が、史料的に成り立たないことを、岡田莊司氏が明らかにしたことが新聞などにも取り上げられて、大きな反響を呼んだのでした。

その岡田説をめぐる賛否が、学界のレベルをも超えて繰り広げられたわけです。

そして現在では、岡田説が認められて、折口説はほぼ「否定」されている、というのが研究史的状況かと思われます。折口説は、たんなるフィクション、ファンタジーという見解もあるようです。

文献実証的な神道史学の立場からは、折口説の批判は、きわめて正当な研究成果だと思います。この点は、間違いないでしょう。

しかし、岡田氏による折口批判を、学問と時代動向との関係のなかで考えていくとき、
つまり「学知史」の視点から見ていくと、また別の問題も考えられます。

折口説への批判は、天皇が「神」と一体化、同体化することへの否定です。
その視点は、戦後憲法下の「国民統合の象徴」としての天皇の在り方とも通底していくことが考えられます。

戦後憲法のもとでは、天皇は「人間」であり、国民に寄り添い、国民のために「祈る」存在となったわけです。というか、平成の明仁天皇(現・上皇)が、それを実践した、最初の天皇と位置付けることができます。


したがって、岡田説は、戦後憲法下の象徴天皇の起源祭祀となった、平成二年の大嘗祭と不可分な関係にあったとも考えられます。もちろん、岡田氏自身が、それを意識したかどうかは、ここでは別問題です。あくまでも学問史、学知史の視点からの議論です。

  

さて、こうした視点から見ていくと、折口信夫の「真床襲衾説」が、昭和三年の大嘗祭のただなかで提示されたことの意味も見過ごせません。

それは折口の学問を、同時代の学問状況に一度埋め戻し、そこからどのような跳躍があるのかを測定していくという視点です(保坂達夫氏の説)。

このとき、昭和大嘗祭の政府見解、また当時の神道学・神道界のキーワードは「神皇帰一」にあります。これは「神人合一」と繋がる用語で、まさに神と天皇が「帰一」、区別がつかなくなるほどの関係になるということです。

この「神皇帰一」の方向性は、当時の神道界をリードしていた今泉定助、
さらに大礼使事務官を勤め「昭和御大礼の大役を一身に引き受けて滞りなく遂行した」(神道人名辞典)、星野輝興の存在が見過ごせません。

すでに周知のことですが、この星野輝興と折口信夫は「親友」の関係でした。
それで折口の説は、大嘗祭の「秘事」にかんする情報を、星野から得ている云々ということが言われています。

では、星野はどのように大嘗祭を捉えているのか…。

つづく