(前回=直接知覚からの続き)

 

5.直接知覚(現量)の特性

 直接知覚の特性について、ダルマキルティ(法称)は(1)「分別がない」と(2)「錯乱がない」の二つを挙げています。

 

 (1)「分別がない」

 ダルマキルティは「知覚は分別(kalpana)を離れている」と主張しています。ここでいう「分別」は、「名辞(言語)依存のもの」のこととダルマキルティは言います。言語は、本来分割されていない事物を分割する機能があります。

 そして、この「名辞依存のもの」には①「名辞依存するもの」と②「名辞依存するもの」の2つの意味があるといいます。

 

①「名辞依存するもの:「牛」という動物を見て、牛でないものから区別して「牛」という概念を持つ。そしてこれを「牛(うし)」という言語で呼ぶ。「牛」という概念が「牛」という名辞(言語)のよりどころになる。

②「名辞依存するもの」:「牛」という概念が、「牛」という名辞(言語)によって生じる。

 

 この議論は、ウィトゲンシュタインの言語哲学「論理哲学論考」(1918年)を想起させます。野矢茂樹氏によれば、言語と思考に関して、二つの考えがある、ひとつは、思考が言語に意味を与えるという考え方、もうひとつは、言語が思考を可能にするという考え方とのことです。そしてウィトゲンシュタインは、言語優位の考え方を打ち出しています。つまり、言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない、と主張します。

 ダルマキルティが600~660年ごろの人ですから、こうしたことには興味が尽きません。

 

(2)「錯乱がない」

 錯乱には次のものが考えられます。

①身体的疾患

 ・目がかすんで月が二重に見える

 ・体内の風質、胆汁、粘液の乱れ

②外的条件

 ・回転が速いため松明が火の輪に見える

 ・自分の乗っている船が進むことで岸の機などが動いているように見える

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)、「言語哲学がはじまる」(野矢茂樹著)他

 ダルマキルティ(法称)の認識論。今回は「認識」自体についてです。

 

1.「認識」の全体観

 改めて、仏教論理学(新因明)の「認識」には2つの要素があります。「現量(直接知覚、または知覚)」と「比 量(概念知、判断、推量、論理的思考)」です。「比量」については「論理学」について語るところで触れることになるでしょう。したがってここでは、「現量(直接知覚、または知覚)」について、主に触れることになります。

 

2.「現量(直接知覚)」の種類

 ダルマキルティは直接知覚として、下記の4つを挙げています。これはディグナーガ(陳那)の主張と同じといわれます。

 

 (1)感官知

 (2)意識の一部(心的感性)

 (3)自証

 (4)ヨーギンの直覚(ヨーガ行者の一種の悟り?)

 

 この4つのうち、最も代表的なもの、一般的なものは(1)の感官知ですね。視覚(眼識)、聴覚(耳識)、嗅覚(鼻識)、味覚(舌識)、触覚(身識)による知になると思います。これは、一般的な議論とあまり変わらないところでしょう。

 また(4)の「ヨーギンの直覚」の意味は、ヨーガ行者が一般人には見えない真理(四諦)をはっきりと直接知覚する(概念知ではなく)ということだと考えられるが、特別なことなのでここでは触れないことにします。

 

 仏教論理学(新因明)の主張の中で、特徴的なのは(2)心的感性と(3)自証の二つだと思います。この二つについて考えていきましょう。

 

3.心的感性(mental sensation, 意識の一部)

 「心的感性」とは何か、明確にはわかりません。戸崎宏正氏は「多分にドグマ的で、その具体的内容や役割は明確ではない」としています。

 しかしながら、「心的感性」の根拠として、認識には二つの流れがあるとしています。一つ目は「感官知の流れ」、すなわち対象を「感官」でとらえる流れ、二つ目は「心的感性」、すなわち「心=意識」によって現前の対象を感じる流れ、としています。言うまでもないことですが、ここでいう「意識」はmano-vijinanaで、現在でいうconsciousnessとは異なります。

  この意識の働きに含まれるものは、推量、判断、思考、過去の思い出し、未来の予想などがあります。そしてこれらは概念知(比量)であり、意識が六識(視覚(眼識)、聴覚(耳識)、嗅覚(鼻識)、味覚(舌識)、触覚(身識)、心(意識))に含まれるとはいえ、意識の働きの中に、「直接知覚」(現量)が含まれてくることには違和感を感じます。

 仏教・中観派ジュニャーナガルバは次のような論理で「意識」に直接知覚(現量)の働きがあると考えます。

 青いものを見たときに、言語以前の青色の感官知(視覚=眼識)を得るが、同時に「これは青い」という判断(概念知=比量)が生じる。この概念知は、心による認識の流れに属するもので、感官知の流れには属しない、と主張します。

 これに対し、ダルマキルティが心的感性がどのような役割を果たすかについては、述べていないようです。

 いずれにしても「論理学」を学んでいる中でドグマが出現するので、戸惑いを感じます。

 

4.自証

 自証は「自らを知る」ことです。この「自らを知る」は、自己の内奥を探求するといった概念操作的意味での「自らを知る」ということではなくて、「燈火が燈火自身を照らす」という比喩で説明される意味での「自らを知る」ことだといわれます。直接知覚が生じるとき、「知覚自体」と「対象相」以外に「知覚自体を認識する」ということが起きる(概念知の外で)ということでしょう。

 「快感」「楽」等の感覚も「自証」の一つだとされます。「快感」は、自分自身の直接体験、自らを直接認識する現象であり、しかもその体験自体は言語化以前(言語化になじまない)の自分の体験です。

 

 参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 

法称の認識の②「対象」についてです。

 

 このテーマは厄介です。なぜならば、唯識派の基本的な主張は、誤解を恐れずにシンプルに言えば、「外界は存在しない。すべて外界の存在認識は、阿頼耶識に蔵されている種子から生じている」としているからです。そしてこれは、仏の悟り(勝義諦)からの主張であり、俗諦(悟りを開いていない一般人の真理)からの立場では、これとは異なる見方を提示しているようです。

 しかも、この俗諦の立場からの主張は、現代の物理科学からは、乖離しているようであり、私見ではあまり見るべきものは、無いように思っています。対象について、こうした主張にどのような現代的な意味があるのでしょうか?

 ともあれ、法称の認識「対象」についての考え方を確認しましょう。

 

 「実に、果(知覚)は、多くの因を持つが(それらの因のうち)あるもの(甲)に従って生じるとき、それ(知覚)はそのもの(甲)によって相を与えられてもつ」「そのもの(甲)はそれ(知覚)によって把握される」

 

 法称は「知に自己の相を与えること」つまり、「知を生起させる能力がある」ことが存在すなわち認識対象にとって重要であるとしています。そして存在そのものについての理論としては「刹那滅(せつなめつ)」と「極微(ごくみ)」説を受け入れているようです。刹那滅は「諸行無常」という教義から論理的に引き出された説であるといわれていますし、極微は、「原子」と同じだ、という人もいますが、子細に見ると原子とは異なります。

 刹那は、時間の最小単位で、一秒の七十五分の一と言われています。諸法はただ一刹那のみ存在して滅するという理論ですが、刹那相続で継続して存在し続けるように見えると考えます。

 極微は、物質を構成する極限の微粒子で、これ以上分割はできない存在とのこと。 極微レベルでは、知覚できない、言い換えれば知覚を生起させる能力はないが、極微が7つ集まると、「微塵」という存在になって、知覚を生起させる能力を持つとされています。

 

 いずれにしても、俗諦の立場から対象を語るので、妙なこじつけをするのではなく。現代物理学の成果を素直に受け入れた方がよいのではないかと思います。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 

 

 

 

【知覚の4要素】

 認識には、①認識者(pramatr)と②対象(prameya)、③認識(という作用)(prama)という3つの要素が一般的には必要になります。しかしながらインド哲学では、この3要素に➃認識の因(karana)を加えて、4要素とすることが多いとのことです。それでは、各要素についてどのような議論があるのでしょうか。

 

①認識者

 仏教では、あくまでも自己の本質である「我(アートマン)」はない、無我=空であるというのが、大原則の主張です。したがって、認識の"主体”は無いことになります。これは法称(ダルマキルティ)でも、同じでしょう。

 では、何が認識するのか?

・仏教内の説一切有部(倶舎論に記述されている)は、「感覚器官(感官)が認識する」と主張しています。

・ほかの仏教内の説では「知が認識する」としています。

・仏教内の経量部は「何が認識するという議論は無意味」であるとしています。そして経量部は「感官と対象

 と心とが和合するとき、知覚が生じる」と主張します。

 

 私見を申し上げれば、認識主体(アートマン=我)は実体としてないとしている仏教が、「何らかの主体が認識する」という議論をすること自体がおかしいといえます。ちなみに、説一切有部での、「感官が認識する」際の感官は、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つになると考えられます。仮和合する色・受・想・行・識の五蘊でいえば、「受」になるでしょう。眼、耳、鼻、舌、身、意が認識するという考え方は、一般論としては受け入れやすい(ただし「意」が「法=ダルマ」を認識するというのはイメージしずらいが…)でしょう。しかし、感覚器官が個別に認識したものはバラバラの情報であり、これをどうやって統合するのか、その機能がどこかにないと、我々にとって有意味な情報にならないと思いますが、この点についてはよくわかりません。(私は明確に理解していないように思います)ここは「意」が統合的な機能を果たすのか、「識」が登場するのか…。

 では、説一切有部以外の各派が主張している「何が認識するかといえば、知が認識する」とは何を意味するのか?ここで「知」と漢訳されているものが何なのか、正直言ってわかりません。「意」「識」「心」「知」…似たような語彙がおそらく異なった意味で使われています。(混乱を生じる一因です)

 

 経量部の説を全面的に採用して、それをベースに理論を展開しているダルマキルティは

 

 ・知覚が対象を把握することは不可能である。知覚にはそのような意味での対象把握の働きはない。

 ・知覚は対象に似て生じる。知覚が対象の相を帯びて生じることを「対象認識」と呼ぶだけだ。

 

としています。誤解を恐れずに言えば、心の中の鏡のようなものが、対象の似姿を映し出すというようなイメージでしょうか。

 いずれにしてもダルマキルティは、「感官と対象と心とが和合するとき、対象の相に似た知覚が生じる」と主張しています。

 

②対象

③認識

➃認識の因

につきましては、次回以降にしたいと思います。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

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 ダルマキルティ(法称)の認識論も、ディグナーガ(陳那)の認識論を基本的に引き継いでいると考えられます。認識は、「現量」(pratyaksa 直接知覚)と「比量」(anumana 推論、間接知)の二種類であり、あるいは二種類しかなく、「聖言量」(聖人などの教え、言説)などは、認識のベースとしては独立して認めないということだと思います。

 これに対応して、認識の対象(所量)も2つになります。「現量」の対象が「個物(自相)」であり、「比量」の対象が「一般概念(共相 ぐうそう)」です。

 ところが、ダルマキルティは、実際のところ、認識は「現量」のみで、認識の対象は「個物(自相)」しかなく、「一般概念(共相)」を認識する「比量(推論)」は、「錯乱」(誤った認識)の一種だと位置づけているようです。

ダルマキルティの認識論は下記の4つで構成されます。

 

(1)ダルマキルティは、認識の対象は「個物」のみと主張するが、その理由は、個物のみが「有効な働きのあるもの」と考えるからであるとします。にもかかわらず認識の対象を2種類としてしているのですが、その2種類とは下記のように考えられます。

  ①個物自身の相が現前することによって認識される場合

  ②概念化されて、個物が目の前にないが、”存在する”と推認される場合

 

(2)「個物」の認識には2種類(現量と比量)あるとして、ダルマキルティは下記の2種類を上げています。

  ①現前の個物を認識する場合

  ②現前にない個物を認識する場合

 

(3)現量と比量の区分け

  ①現前の個物の認識→現量(直接知覚)

  ②個物が現前にない時の個物の認識→比量(推論)による

 

(4)共相による認識

推論による認識は、個物の認識ではありません。それは、一般概念(共相)を”媒介”として、認識をしますから、ダルマキルティは”錯乱”の一種であるとしています。

例を挙げて試みに考えてみますが、

 火があって直接その火、炎を見るのは、現量(直接知覚)で認識することになります。しかし遠くの火、山の向こうの火は直接知覚することができません。ところが山の向こうから煙が見えます。「煙があるところに火がある」という一般概念から、個物である「火」がそこにあると認識することができます。しかしこれは、個物の自相そのものの認識ではないので、ダルマキルティは”錯乱”の一種と考えますが、結果的に人に有効な働きの能力のあるものを得させるから、認識方法としては”正しい”と考えます。

 

 なんとなくプラグマティックな響きを感じますが、プラグマティックな傾向は、釈迦時代からの仏教の伝統になるのでしょうか?

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 陳那も法称も、正しい認識は現量(直接知覚)と比量(推論)のみであるとしています。他の学派、宗派は、他の認識、例えば「聖言量」(聖典の教えに基づく認識)なども正しい認識の方法としていますが、仏教論理学(陳那、法称)では、聖言量は比量に含まれると考えているのでしょう。ほかの宗派も含めて、どのような認識を正しいとしているか、わかる範囲でまとめたのが下記の表です。ヴェータンダ派では、すべての認識方法を正しい認識に至るものとして受け入れてます。

 

 

 

 

 法称は、陳那の考え方を受け継いでいますが、なぜ現量と比量の二つなのかについても述べています。法称は「人が利のあるものを取り、害のあるものを捨てるのは、正しい知識による。それゆえに知識論が述べられる」(知識の決定)と主張します。知識の正しさは、利のあるものを取れるかどうかにによるわけです。

 そう意味でいうと、法称は、実は正しい知識は個物のみからもたらされるといいます。個物が現前にあって、個物自身の相によって認識される場合が、現量です。個物が現前にない、媒介(共相:概念)によって個物を認識するのが、比量です。法称は、これは一種の錯誤で

あるとしますが、しかし、それによって結果として有効な働きの能力がある個物を得させることができるから、これも正しい認識の源泉であると考えます。

知識の正しさは、利のあるものを取れるかどうかにによるわけです。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)

 

 

 

 

 

 法称(ダルマキルティ)は、唯識派(大乗仏教)の流れにいるにもかかわらず、その認識論は経量部(部派仏教)の説に負うところがあるということを、前回でも触れました。どのような説に拠ろうが拠るまいが自由でしょうという考え方もあるかもしれませんが、両派の思想の原則において対立するところがあるので、そう簡単ではないと考えられます。

 

 どこに対立点があるかというと、次の点です。

唯識派:認識の構造の中で、認識する側(認識主体=見分)および認識される側、認識の

     対象の姿(相分)の双方が識の中にある、識の中の出来事であると主張する。(逆に

     言えば認識主体も、認識対象の姿の双方とも外にはない)

経量部:認識対象の姿(相分)は外界の対象物からもたらされると主張する。

 

 この点をもう少し詳しく見てみると次の表のようになります。

 

 派    |外境(外界の物)は |知覚は外界の対象物を |対象物の姿は     | 主な

      |実在する       | そのまま映す       |外界からもたらされる | 論者  

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

説一切 |     〇       |        〇      |       〇     | ヴァスミトラ

 有部  |             |                |              |  

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

経量部 |     〇       |        ×      |       〇     |シューリラータ

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

有相  |      ×       |        ×      |       ×     |ダルマパーラ

唯識派 |               |                           |              |ディグナーガ

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

無相  |      ×       |        ×      |       ×     |スティラマティ

唯識派 |               |                           |              |

 

 経量部の主張を平易な言い方で表すと「外界の物は実在するし我々の認識にも影響する。しかし、外界の物は我々が認識した通りには存在しない」ということでしょうか?

 

 法称が経量部の主張に負ったのは、彼の提唱する認識論は、あくまでも凡夫の立場からの認識論であることと関係があるのかもしれません。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)

 

 

 法称(ダルマキルティ)の認識論に関連して、今回は経量部のアウトラインを整理しておきたいと思います。

 これまでも触れてきましたが、法称の理論は経量部の理論に負うところが少なくないとされています。仏教の中でメインの思想潮流を挙げるとすると、中観、唯識、説一切有部と並んでこの経量部が挙がってきます。しかしながら経量部は「仏教思想史上きわめて重要であるにもかかわらず、未だ歴史も教義も明らかでない部分がある」(岩波哲学思想事典)と指摘されているように、よくわからない部分があります。

 

 経量部(Sautrantika)の名前の由来は「経典を知識根拠(pramana、量)とし、論を知識根拠としない」という考え方にあるとされています。論師、人師が説く論よりも、仏の教えであるとする経典を重視するというのは、ある意味では仏教内の常識的な主張ですが、この名前には、説一切有部が、あまりにも論を重視してしまったということに対する批判が込められているとされています。

 

 経量部は、紀元4,5世紀ごろ、シューリラータ(Srilata)と世親(Vasubandhu)を中心にして、創始されたといいます。経量部のコア概念は「現在有体 過未無体」です。

 

 「現在有体 過未無体」とだけ言われても、何のことかよくわかりませんが、これは説一切有部のコア概念である「三世実有、法体恒有」に対するアンチテーゼです。両方とも、法(ダルマ、存在の要素)についての主張であり、チャート化すると次のようになります。

 

                 過去  | 現在 |  未来

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

説一切有部      |   有  |  有  |   有     

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

経量部         |   無  |  有  |   無 

 

 

 説一切有部の「三世実有、法体恒有」は、現在はもちろんのこととして、過去や未来のダルマも無ではなく実在する、結果として三世において恒(つね)に実在するという主張です。現在あるダルマは、次の瞬間(刹那)には過去世に去ってそこで実在する、現在のダルマは、未来世において実在していたものが、因縁和合して現在へ出てきたものであると考えます。なぜこんなややこしいことを考えたかといえば、対象のない心の働きはないという前提を持つからです。人間の心の働きとして、過去のことを思い出したり、未来のことを想像したり予測したりすることができます。それは心の働きではありますが、過去のこと、未来のことという対象が必ずあります。これが「三世実有」と考える根拠であるとしています。

 これに対して、 「現在有体 過未無体」は、現在の刹那のダルマのみ実有であって、過去、未来には無い、とする考え方です。現在のダルマは刹那の間に生じ滅するのですが、かわりに経量部は、種子(しゅうじ)という概念を創出しました。ダルマは消滅するが、種子が次々と受け継がれていく、そしてそれがあるときに現実に顕現すると考えます。

 結果論として、二つの説の何が違うんだという疑問がわいてきますが、かつてはそういう議論がなされてきたということでしょう。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)‎「存在の分析〈アビダルマ〉」(櫻部建他著)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 法称(ダルマキルティ)の認識論について、考えています。

 

1.勝義諦と俗諦

 法称は陳那(ディグナーガ)の直接の弟子ではないが、仏教論理学(因明)分野での最大の後継者とされています。しかし仏教論理学とはいいながら、勝義諦=仏の悟りの視点からの論理学(仏の悟りからの論理なるものはないかもしれないが…)ではなく、俗諦(世間的視点からの真理)での論理学という位置づけであるのは、陳那も法称も変わらないと理解しています。

 この問題を、「認識する主体」と「認識される客体」(あるいは主観Subjectと客観Object)という視点で整理すると下記のようになるでしょう。

 

 (1)勝義諦:主客が分かれていない知、玄妙な仏の知

 (2)俗諦:主客が分かれている知、すなわち認識する側(主体)と認識される側(客体)がそれぞれあるとする場面での知識

 

2.外境実在説と外境非実在説

 俗諦や外道(仏教以外)における認識論は、外境実在説、すなわち認識する主体としての知とは別に、外界の対象物が存在するという考え方に沿っていると考えることができます。例えばバラモン哲学正理派は、外境実在説に立ち、知は外境をそのまま認識すると考えるようです。反対側から言えば、外界は知が認識したとおりに実在するという考えなのでしょう。

 これに対し、唯識が勝義諦に属すると考えるならば、唯識、有相唯識派は外境は実在せずに、すべては知の中に存在すると考えるようです。唯識派が存在を主張する阿頼耶識(あらやしき)に、外部環境と認識されるものの一切のタネ(種子;しゅうじ)があるとしています。

 

 われわれが普段日常生活を送っているとき、外部に認識対象がそのように存在することをほとんど疑うことはありません。そうでなければ日常生活を送ることはできないでしょう。しかし、よく考えてみると外部世界の存在は、かなり危ういものです。

 

 例えば、我々は緑色に見えるシャツを見て、「緑色のシャツだ」と認識します。しかし、緑色なるものに実体があるのでしょうか?最近の科学の成果によれば、緑色は、ある波長の光(電磁波)が網膜上にある受容物質に反応することにより認識されるものとしています。シャツはある波長の光を反射しているに過ぎなくて、シャツそのものが緑色というとらえ方には違和感があります。

 人間は赤、緑、青を感受できる物質を持つといわれますが、人間以外の動物では赤と青だけしか反応しない動物もいるようで、そうした動物にとっては、人間とは全く違うように世界が見えることになるでしょう。また人間より多い色を受容できる動物もいるようですが、そうした動物が認識したものを、人間は認識できない部分があります。人間が認識できないものは存在しないのでしょうか?

 また人間同士でも、ほかの人が感じている色の認識を直接確かめるすべはありません。言語で「緑」と言い合っていますが、果たして同じ色を緑と言っているのでしょうか?それはわかりません。

 また光が電磁波であるとすると、測定装置では波として測定されますが、光の実体は波形を描いた波なのでしょうか?

 

 色は視覚の問題ですが、触覚にも同様な疑問があります。物質は原子の集合体だが、原子の中の原子核と電子の間には広い隙間があります。人間が手で何かをつかもうとするとき、手と対象物質のそれぞれの原子は隙間だらけなので、手が物質の間を通り抜けても不思議ではありませんが、実際にはそのようなことは起きません。それは、電子同士がマイナスの電荷を帯びていて反発するからであるとのことのようです。ものに触れたとき我々は「かたい」「やわらかい」などの感触を感じますが、その感触はいったい何なのでしょうか?電子の反発の仕方の違いなのでしょうか?いずれにしても、その感触自身が実体を表しているとは思えません。

 

 このように、我々の外部世界の認識は、あやふやなもので確たるものではないといえます。

 

 こう見てくると、法称の認識論、外部非実在説に沿うように見えますが、外部実在説と非実在説の中間にある「経量部」の説を多く取り入れているとのことです。

 

 

 

 

‎参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)‎

 陳那についてはいったんおきまして、今回から陳那の後継者である法称(ダルマキールティ、

Dharmakirti)について考えていきたいと思います。

 陳那については、「因明正理門論」等の漢訳があり、それらは日本にも伝わっているので、ある程度日本を含む東アジアでも知られていますが、法称(ダルマキールティ)の著作は漢訳されていず、「因明」での業績の大きさの割に、法称のことはあまり知られていないといってよいと思います。

 

 特に日本では、「信」と「行」が強く強調される傾向があるといわれており、認識論や論理学などの知識論は仏教界、新宗教界であまり顧みられていないといえます。(なぜ日本では感覚や直感が重視され、知識、合理性が軽視されるのかも興味深いところですが・・・)

 こうした中で、中村元氏は「彼(法称)ほどに合理主義を徹底した哲学者は、人類の思想史においても稀であろう」(ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想)とまで言っています。わたくしはなかなかそこまでは実感できていませんが。

 

 法称の思想哲学に入る前に、法称の生涯を簡単に見てみましょう。彼は600年に南インドでバラモンの家庭に生まれ、660年に没したといわれていますが、諸説あるようです。ですが一応この年代に沿ってみていきましょう。

 青年期に仏教に傾倒し、ナーランダ大学に唯識の泰斗である護法(ダルマパーラ)を訪ね、師事したと言われています。しかしながら護法は530年生まれ、561年没とされており、これでは対面することはできません。護法の弟子で同じくナーランダ大学で教鞭をとっていた戒賢(シーラバドラ、529年~645年)ならば、年齢的に師事することは可能でしょう。

 戒賢は、玄奘(602年~664年)のナーランダ大学における師匠でもありました。玄奘と護法の間にも、不思議な伝説があり、玄奘が護法から直接唯識の秘法を教えてもらったという伝説があります。この秘密の内容について、護法はふさわしい人が現れたならば、その人に伝えようと考えていたとのことで、玄奘以外には伝えていないとのことです。ですが、これも年齢的には無理な話でしょう。

 話を、法称に戻して、法称は「因明」に特に強い関心を持ち、陳那の弟子であるイーシュヴァラセーナから陳那の思想哲学を学びました。最終的には師を凌駕するほどであったといわれます。

 その後、いくつかの法論の伝説が残っています。

 ①バラモン哲学の一派、ミーマンサー学派のクマーリラとの論戦

   議論に勝ち、クマーリラを含む数百人を仏教に改宗させた

 ②同じくバラモンの一派、ヴァイシェーシカ派のカナーダ・グプタとの論戦

  仏教に改宗

 ③六師外道のジャイナ教、ラーフヴラティンとの対決

 

 これらが100%事実か伝説かはわかりませんが、バラモン哲学や六師外道との間で、何らかの論争があったことは間違いのないところでしょう。

 

 法称が亡くなり火葬にしたとき、荘厳華麗な花の雨が降 り、7日間全国 く まな く香 と妙 なる音楽で満たされたと伝えられています。こうした伝説は、後秦の訳経僧、鳩摩羅什を火葬にしたときに、青い蓮華が生えて、その上に鳩摩羅什の舌だけが焼け残って光を放った、という伝説を思い起こさせます。もちろんどちらも事実とは到底思えませんが。

 

 法称は、「因明」の思索研究に一生を費やしましたが、どうも納得がいかないのが、自分の研究する「因明」が、勝義諦(仏教の悟りの真理)に属するものではなく、俗諦(俗世間の真理)に属するものと位置付けていたことです。仏教者を自認するのならば、勝義諦を目指すものと単純に思うのですが、この辺りのモチベーションがどこから来たのか、興味が尽きないところです。

 

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)「ダルマキールティの生涯と作品」(宮坂宥勝著)、「哲学・思想事典」(岩波書店)