(前回=直接知覚からの続き)
5.直接知覚(現量)の特性
直接知覚の特性について、ダルマキルティ(法称)は(1)「分別がない」と(2)「錯乱がない」の二つを挙げています。
(1)「分別がない」
ダルマキルティは「知覚は分別(kalpana)を離れている」と主張しています。ここでいう「分別」は、「名辞(言語)依存のもの」のこととダルマキルティは言います。言語は、本来分割されていない事物を分割する機能があります。
そして、この「名辞依存のもの」には①「名辞が依存するもの」と②「名辞に依存するもの」の2つの意味があるといいます。
①「名辞が依存するもの:「牛」という動物を見て、牛でないものから区別して「牛」という概念を持つ。そしてこれを「牛(うし)」という言語で呼ぶ。「牛」という概念が「牛」という名辞(言語)のよりどころになる。
②「名辞に依存するもの」:「牛」という概念が、「牛」という名辞(言語)によって生じる。
この議論は、ウィトゲンシュタインの言語哲学「論理哲学論考」(1918年)を想起させます。野矢茂樹氏によれば、言語と思考に関して、二つの考えがある、ひとつは、思考が言語に意味を与えるという考え方、もうひとつは、言語が思考を可能にするという考え方とのことです。そしてウィトゲンシュタインは、言語優位の考え方を打ち出しています。つまり、言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない、と主張します。
ダルマキルティが600~660年ごろの人ですから、こうしたことには興味が尽きません。
(2)「錯乱がない」
錯乱には次のものが考えられます。
①身体的疾患
・目がかすんで月が二重に見える
・体内の風質、胆汁、粘液の乱れ
②外的条件
・回転が速いため松明が火の輪に見える
・自分の乗っている船が進むことで岸の機などが動いているように見える
参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)、「言語哲学がはじまる」(野矢茂樹著)他