前回、法称の論理学では、論理的に推論が成り立つ関係は、「因果関係」と「同一関係」の二つであると記述しました。

 法称は、先師である陳那の主張に忠実である、師匠の言うことに従っている、と言っているようですが、実態はかなり異なる(変化している、進化している?)ように感じられます。仏教世界の師弟のこのような関係は、他にも少なからず見られるようです。

 

 陳那と法称で扱いの異なることの一つは「喩」の扱い方です。前回も書きましたが、陳那は主張の根拠として「同喩」だけでなく「異喩」も使用していますが、「異喩」は「同喩」の対偶なので、論理学的に言えば不要です。法称は「異喩」を使っていないようです。また、「同喩」にしても、法称は軽く扱っているように感じられます。

 

 「喩」、すなわち「たとえ」「事例」「エピソード」と言い換えることができると思いますが、個人的には「命題」の根拠に「喩」を使用することには、危うさを感じます。

 

 「命題」の根拠として「事例」を紹介すると、「命題」の説得力が増すと同時に、聞き手の関心も高まることがよくあります。特に、」日本人に「事例」(エピソード)が好きな人が多い、と指摘する人がいます。

  例えば、ある主張について日本人の担当者に「その主張の根拠としてエビデンス(証拠)を示してくれ」と指示したところ、その担当者は、1,2のエピソード(事例)を持ってきたので、困ってしまった、という話を聞いたことがあります。この場合のエビデンスというのは、偶然発生したかもしれない1,2のエピソードではなく、対象の統計的なデータ・事実・傾向などが該当すると考えられます。

 

 以前「エクセレント・カンパニー」という本が、ベストセラーになったことがあります。エクセレント(素晴らしい、成長している、儲かっている)会社のマネジメントはどのようなことをやっているか、例えば「エクセレントカンパニーではMBWA=現場を歩き回る経営を実施している」(事例、エピソード)などを紹介した本でした。いわば「エクセレントになりたければ、こういう会社がやっていることをまねしろよ」というような本でしたが、そこで紹介されていた会社のいくつかは、その後の業績不振でなくなってしまったり、他社に吸収されたり、つぶれはしないがとてもエクセレントとは呼べない状況に陥っていたりしています。

 

 こうした類は、エピソード(事例)であり、エビデンスとはならないと思います。経営学が社会科学であるとするならば、因果関係を立証するにたるエビデンスが必要だろうと思います。

 

 話が、法称から外れてしまいました!!

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 

 

 

 今回から、法称(ダルマキルティ―)の論理学について考えていきたいと思います。

よく知られている通り、仏教論理学においては、陳那(ディグナーガ)と法称(ダルマキルティー)が2大巨頭といわれます。(陳那が先達)これまで陳那の認識論、論理学(三支作法を中心に)、法称の認識論について考えてきました。それらに続きまして法称の論理学について考えます。さらに法称の論理学後についても考えていきたいと思います。

 

 結論的なことを最初に提示すれば、法称の論理学で、論理的に推論が成り立つ関係は、二つであり、この二つしかないとします。その二つは

 1.因果関係

 2.同一関係

です。(ただし、この二つに「非認識」を加えて、3種類とする場合もありますが、これについては後述)

 

 これらはどのようなロジックになっているのか、陳那の三支作法も含め、例示を見ながら考えていきたいと思います。例示は西欧論理学で親しまれている「ソクラテスの死」を中心に、仏教論理学で使用されている「山の火」(山から煙が上がっている。そこから、あの山には火があるという推論が成立する)等も援用しながら考えます。

 

(1)三支作法例

(宗)「あの山に火がある」

(因)「煙があるからである」

(喩)(同喩)「およそ煙のある所には火がある。例えばかまどのように」

   (異喩)「およそ火のないところには煙はない。例えば湖のように」

 

(宗)「ソクラテスは死ぬ」

(因)「ソクラテスが人間であるからである」

(喩)(同喩)「およそ人間は死ぬ。例えばプラトン、アリストテレス、ニュートン、孔子、聖徳太子のように」

   (異喩)「およそ死なないものは人間ではない。例えばAIロボットのアメカのように」

 

なお、三段論法では下記のように順番は異なるようです。また喩はありません。

三段論法例

(大前提)「人間は死ぬ」

(小前提)「ソクラテスは人間である」

(結論) 「故にソクラテスは死ぬ」

 

(2)法称およびそれ以降の論理学:因果関係での推論例

法称の推論方法を「ソクラテスの死」や「山の火」の例に当てはめてみました。まず「因果関係の例」

 

(主題所属性)「あの山に、煙があるから火がある」

(遍充)   「およそ煙があるところには火がある。かまどのように」

 

この例では、「火」は「煙」の原因で、「煙」は結果になります。

異喩は同喩に対して対偶なので、異喩は論理学的には不要となります。そして、そのことは陳那も自覚していたことといわれています。

 

上記三支作法で上げた「ソクラテスの死」の例は因果関係にはなじまないように思います。因果関係でいえば下記のようになると考えます。

(肯定的遍充)「およそ、致死量の毒物をとれば死ぬ。例えば芥川龍之介のように」

(主題所属性)「ソクラテスは致死量の毒物(ドクニンジンといわれる)が入った杯をあおった」

(結論)   「ゆえに、ソクラテスは死ぬ」

 

(2)法称以降の論理学:同一関係での推論例

次に「同一関係」での例で考えてみます。

ここで「同一関係」とされていますが、「同一」ということばに少し違和感を感じます。「同一関係」としてあてはめてみましょう。サンスクリット語が分からないので、原語はどのような意味か、どのような含意で「同一関係」と訳されたのかわかりませんが、むしろ「外延関係」としてとらえた方が、しっくりきます。

 

(遍充) 「およそ人はすべて死ぬ」

(所属性)「ソクラテスは、人間である」

(結論) 「ゆえに、ソクラテスは死ぬ」

 

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 「認識の因」について考えます。

 

 「認識の因」は知の4要素(認識者、対象、認識、認識の因)の一つです。通俗的に考えると、「認識の因は、シンプルに認識の対象そのものではないか。対象がなかったならば、認識されないでしょう」と思われます。しかし唯識を含む仏教論理学では、そうはいかないようです。唯識では外界は存在しません。あるいは、唯識と親和性のある経量部では、外界の存在は認めるものの、知の対象相によって推理されるだけだと主張します。このような思考では、「認識の因は対象そのものだ」という主張は、なかなか通らないかもしれません。

 

 では、法称の考える「認識の因」はどのようなものなのでしょうか。

 法称は「認識の因」を2段階で考えているようです。第一段階は、経量部の考え方に基づくもの、第二段階は唯識説に基づくものです。第一段階は、世間一般の知識の範囲内で、知識の真実を論究するという限定目的があるとしており、第二段階は、より仏のに近づく唯識説に基づくものです。

 

①第一段階(経量部に基づく)

 認識(知)の因と果は別体ではなく、一つの認識経験の中に成り立っているとします。認識の因は、知が対象の相をもって生じること、知が対象に似ていること(対象相似性)であるとします。

 

②第二段階(唯識に基づく)

 唯識説では、ありとあらゆる存在を生じさせる力を「種子(しゅうじ、bija)」と呼び、すべての種子が阿頼耶識の中に蔵されていると主張します。ある特定の知覚を生じさせる種子(=習気じっけ)を覚醒させることが認識になっていくと考えられますが、知覚の本質は自己自身を感受することだとします。外界は存在しない、すべては識の中にあるという考え方だと思います。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)

 

 

(前回=直接知覚からの続き)

 

5.直接知覚(現量)の特性

 直接知覚の特性について、ダルマキルティ(法称)は(1)「分別がない」と(2)「錯乱がない」の二つを挙げています。

 

 (1)「分別がない」

 ダルマキルティは「知覚は分別(kalpana)を離れている」と主張しています。ここでいう「分別」は、「名辞(言語)依存のもの」のこととダルマキルティは言います。言語は、本来分割されていない事物を分割する機能があります。

 そして、この「名辞依存のもの」には①「名辞依存するもの」と②「名辞依存するもの」の2つの意味があるといいます。

 

①「名辞依存するもの:「牛」という動物を見て、牛でないものから区別して「牛」という概念を持つ。そしてこれを「牛(うし)」という言語で呼ぶ。「牛」という概念が「牛」という名辞(言語)のよりどころになる。

②「名辞依存するもの」:「牛」という概念が、「牛」という名辞(言語)によって生じる。

 

 この議論は、ウィトゲンシュタインの言語哲学「論理哲学論考」(1918年)を想起させます。野矢茂樹氏によれば、言語と思考に関して、二つの考えがある、ひとつは、思考が言語に意味を与えるという考え方、もうひとつは、言語が思考を可能にするという考え方とのことです。そしてウィトゲンシュタインは、言語優位の考え方を打ち出しています。つまり、言語が思考を成立させるのであって、言語以前の思考という考えには意味がない、と主張します。

 ダルマキルティが600~660年ごろの人ですから、こうしたことには興味が尽きません。

 

(2)「錯乱がない」

 錯乱には次のものが考えられます。

①身体的疾患

 ・目がかすんで月が二重に見える

 ・体内の風質、胆汁、粘液の乱れ

②外的条件

 ・回転が速いため松明が火の輪に見える

 ・自分の乗っている船が進むことで岸の機などが動いているように見える

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)、「言語哲学がはじまる」(野矢茂樹著)他

 ダルマキルティ(法称)の認識論。今回は「認識」自体についてです。

 

1.「認識」の全体観

 改めて、仏教論理学(新因明)の「認識」には2つの要素があります。「現量(直接知覚、または知覚)」と「比 量(概念知、判断、推量、論理的思考)」です。「比量」については「論理学」について語るところで触れることになるでしょう。したがってここでは、「現量(直接知覚、または知覚)」について、主に触れることになります。

 

2.「現量(直接知覚)」の種類

 ダルマキルティは直接知覚として、下記の4つを挙げています。これはディグナーガ(陳那)の主張と同じといわれます。

 

 (1)感官知

 (2)意識の一部(心的感性)

 (3)自証

 (4)ヨーギンの直覚(ヨーガ行者の一種の悟り?)

 

 この4つのうち、最も代表的なもの、一般的なものは(1)の感官知ですね。視覚(眼識)、聴覚(耳識)、嗅覚(鼻識)、味覚(舌識)、触覚(身識)による知になると思います。これは、一般的な議論とあまり変わらないところでしょう。

 また(4)の「ヨーギンの直覚」の意味は、ヨーガ行者が一般人には見えない真理(四諦)をはっきりと直接知覚する(概念知ではなく)ということだと考えられるが、特別なことなのでここでは触れないことにします。

 

 仏教論理学(新因明)の主張の中で、特徴的なのは(2)心的感性と(3)自証の二つだと思います。この二つについて考えていきましょう。

 

3.心的感性(mental sensation, 意識の一部)

 「心的感性」とは何か、明確にはわかりません。戸崎宏正氏は「多分にドグマ的で、その具体的内容や役割は明確ではない」としています。

 しかしながら、「心的感性」の根拠として、認識には二つの流れがあるとしています。一つ目は「感官知の流れ」、すなわち対象を「感官」でとらえる流れ、二つ目は「心的感性」、すなわち「心=意識」によって現前の対象を感じる流れ、としています。言うまでもないことですが、ここでいう「意識」はmano-vijinanaで、現在でいうconsciousnessとは異なります。

  この意識の働きに含まれるものは、推量、判断、思考、過去の思い出し、未来の予想などがあります。そしてこれらは概念知(比量)であり、意識が六識(視覚(眼識)、聴覚(耳識)、嗅覚(鼻識)、味覚(舌識)、触覚(身識)、心(意識))に含まれるとはいえ、意識の働きの中に、「直接知覚」(現量)が含まれてくることには違和感を感じます。

 仏教・中観派ジュニャーナガルバは次のような論理で「意識」に直接知覚(現量)の働きがあると考えます。

 青いものを見たときに、言語以前の青色の感官知(視覚=眼識)を得るが、同時に「これは青い」という判断(概念知=比量)が生じる。この概念知は、心による認識の流れに属するもので、感官知の流れには属しない、と主張します。

 これに対し、ダルマキルティが心的感性がどのような役割を果たすかについては、述べていないようです。

 いずれにしても「論理学」を学んでいる中でドグマが出現するので、戸惑いを感じます。

 

4.自証

 自証は「自らを知る」ことです。この「自らを知る」は、自己の内奥を探求するといった概念操作的意味での「自らを知る」ということではなくて、「燈火が燈火自身を照らす」という比喩で説明される意味での「自らを知る」ことだといわれます。直接知覚が生じるとき、「知覚自体」と「対象相」以外に「知覚自体を認識する」ということが起きる(概念知の外で)ということでしょう。

 「快感」「楽」等の感覚も「自証」の一つだとされます。「快感」は、自分自身の直接体験、自らを直接認識する現象であり、しかもその体験自体は言語化以前(言語化になじまない)の自分の体験です。

 

 参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 

法称の認識の②「対象」についてです。

 

 このテーマは厄介です。なぜならば、唯識派の基本的な主張は、誤解を恐れずにシンプルに言えば、「外界は存在しない。すべて外界の存在認識は、阿頼耶識に蔵されている種子から生じている」としているからです。そしてこれは、仏の悟り(勝義諦)からの主張であり、俗諦(悟りを開いていない一般人の真理)からの立場では、これとは異なる見方を提示しているようです。

 しかも、この俗諦の立場からの主張は、現代の物理科学からは、乖離しているようであり、私見ではあまり見るべきものは、無いように思っています。対象について、こうした主張にどのような現代的な意味があるのでしょうか?

 ともあれ、法称の認識「対象」についての考え方を確認しましょう。

 

 「実に、果(知覚)は、多くの因を持つが(それらの因のうち)あるもの(甲)に従って生じるとき、それ(知覚)はそのもの(甲)によって相を与えられてもつ」「そのもの(甲)はそれ(知覚)によって把握される」

 

 法称は「知に自己の相を与えること」つまり、「知を生起させる能力がある」ことが存在すなわち認識対象にとって重要であるとしています。そして存在そのものについての理論としては「刹那滅(せつなめつ)」と「極微(ごくみ)」説を受け入れているようです。刹那滅は「諸行無常」という教義から論理的に引き出された説であるといわれていますし、極微は、「原子」と同じだ、という人もいますが、子細に見ると原子とは異なります。

 刹那は、時間の最小単位で、一秒の七十五分の一と言われています。諸法はただ一刹那のみ存在して滅するという理論ですが、刹那相続で継続して存在し続けるように見えると考えます。

 極微は、物質を構成する極限の微粒子で、これ以上分割はできない存在とのこと。 極微レベルでは、知覚できない、言い換えれば知覚を生起させる能力はないが、極微が7つ集まると、「微塵」という存在になって、知覚を生起させる能力を持つとされています。

 

 いずれにしても、俗諦の立場から対象を語るので、妙なこじつけをするのではなく。現代物理学の成果を素直に受け入れた方がよいのではないかと思います。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 

 

 

 

 

 

【知覚の4要素】

 認識には、①認識者(pramatr)と②対象(prameya)、③認識(という作用)(prama)という3つの要素が一般的には必要になります。しかしながらインド哲学では、この3要素に➃認識の因(karana)を加えて、4要素とすることが多いとのことです。それでは、各要素についてどのような議論があるのでしょうか。

 

①認識者

 仏教では、あくまでも自己の本質である「我(アートマン)」はない、無我=空であるというのが、大原則の主張です。したがって、認識の"主体”は無いことになります。これは法称(ダルマキルティ)でも、同じでしょう。

 では、何が認識するのか?

・仏教内の説一切有部(倶舎論に記述されている)は、「感覚器官(感官)が認識する」と主張しています。

・ほかの仏教内の説では「知が認識する」としています。

・仏教内の経量部は「何が認識するという議論は無意味」であるとしています。そして経量部は「感官と対象

 と心とが和合するとき、知覚が生じる」と主張します。

 

 私見を申し上げれば、認識主体(アートマン=我)は実体としてないとしている仏教が、「何らかの主体が認識する」という議論をすること自体がおかしいといえます。ちなみに、説一切有部での、「感官が認識する」際の感官は、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つになると考えられます。仮和合する色・受・想・行・識の五蘊でいえば、「受」になるでしょう。眼、耳、鼻、舌、身、意が認識するという考え方は、一般論としては受け入れやすい(ただし「意」が「法=ダルマ」を認識するというのはイメージしずらいが…)でしょう。しかし、感覚器官が個別に認識したものはバラバラの情報であり、これをどうやって統合するのか、その機能がどこかにないと、我々にとって有意味な情報にならないと思いますが、この点についてはよくわかりません。(私は明確に理解していないように思います)ここは「意」が統合的な機能を果たすのか、「識」が登場するのか…。

 では、説一切有部以外の各派が主張している「何が認識するかといえば、知が認識する」とは何を意味するのか?ここで「知」と漢訳されているものが何なのか、正直言ってわかりません。「意」「識」「心」「知」…似たような語彙がおそらく異なった意味で使われています。(混乱を生じる一因です)

 

 経量部の説を全面的に採用して、それをベースに理論を展開しているダルマキルティは

 

 ・知覚が対象を把握することは不可能である。知覚にはそのような意味での対象把握の働きはない。

 ・知覚は対象に似て生じる。知覚が対象の相を帯びて生じることを「対象認識」と呼ぶだけだ。

 

としています。誤解を恐れずに言えば、心の中の鏡のようなものが、対象の似姿を映し出すというようなイメージでしょうか。

 いずれにしてもダルマキルティは、「感官と対象と心とが和合するとき、対象の相に似た知覚が生じる」と主張しています。

 

②対象

③認識

➃認識の因

につきましては、次回以降にしたいと思います。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

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 ダルマキルティ(法称)の認識論も、ディグナーガ(陳那)の認識論を基本的に引き継いでいると考えられます。認識は、「現量」(pratyaksa 直接知覚)と「比量」(anumana 推論、間接知)の二種類であり、あるいは二種類しかなく、「聖言量」(聖人などの教え、言説)などは、認識のベースとしては独立して認めないということだと思います。

 これに対応して、認識の対象(所量)も2つになります。「現量」の対象が「個物(自相)」であり、「比量」の対象が「一般概念(共相 ぐうそう)」です。

 ところが、ダルマキルティは、実際のところ、認識は「現量」のみで、認識の対象は「個物(自相)」しかなく、「一般概念(共相)」を認識する「比量(推論)」は、「錯乱」(誤った認識)の一種だと位置づけているようです。

ダルマキルティの認識論は下記の4つで構成されます。

 

(1)ダルマキルティは、認識の対象は「個物」のみと主張するが、その理由は、個物のみが「有効な働きのあるもの」と考えるからであるとします。にもかかわらず認識の対象を2種類としてしているのですが、その2種類とは下記のように考えられます。

  ①個物自身の相が現前することによって認識される場合

  ②概念化されて、個物が目の前にないが、”存在する”と推認される場合

 

(2)「個物」の認識には2種類(現量と比量)あるとして、ダルマキルティは下記の2種類を上げています。

  ①現前の個物を認識する場合

  ②現前にない個物を認識する場合

 

(3)現量と比量の区分け

  ①現前の個物の認識→現量(直接知覚)

  ②個物が現前にない時の個物の認識→比量(推論)による

 

(4)共相による認識

推論による認識は、個物の認識ではありません。それは、一般概念(共相)を”媒介”として、認識をしますから、ダルマキルティは”錯乱”の一種であるとしています。

例を挙げて試みに考えてみますが、

 火があって直接その火、炎を見るのは、現量(直接知覚)で認識することになります。しかし遠くの火、山の向こうの火は直接知覚することができません。ところが山の向こうから煙が見えます。「煙があるところに火がある」という一般概念から、個物である「火」がそこにあると認識することができます。しかしこれは、個物の自相そのものの認識ではないので、ダルマキルティは”錯乱”の一種と考えますが、結果的に人に有効な働きの能力のあるものを得させるから、認識方法としては”正しい”と考えます。

 

 なんとなくプラグマティックな響きを感じますが、プラグマティックな傾向は、釈迦時代からの仏教の伝統になるのでしょうか?

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)他

 陳那も法称も、正しい認識は現量(直接知覚)と比量(推論)のみであるとしています。他の学派、宗派は、他の認識、例えば「聖言量」(聖典の教えに基づく認識)なども正しい認識の方法としていますが、仏教論理学(陳那、法称)では、聖言量は比量に含まれると考えているのでしょう。ほかの宗派も含めて、どのような認識を正しいとしているか、わかる範囲でまとめたのが下記の表です。ヴェータンダ派では、すべての認識方法を正しい認識に至るものとして受け入れてます。

 

 

 

 

 法称は、陳那の考え方を受け継いでいますが、なぜ現量と比量の二つなのかについても述べています。法称は「人が利のあるものを取り、害のあるものを捨てるのは、正しい知識による。それゆえに知識論が述べられる」(知識の決定)と主張します。知識の正しさは、利のあるものを取れるかどうかにによるわけです。

 そう意味でいうと、法称は、実は正しい知識は個物のみからもたらされるといいます。個物が現前にあって、個物自身の相によって認識される場合が、現量です。個物が現前にない、媒介(共相:概念)によって個物を認識するのが、比量です。法称は、これは一種の錯誤で

あるとしますが、しかし、それによって結果として有効な働きの能力がある個物を得させることができるから、これも正しい認識の源泉であると考えます。

知識の正しさは、利のあるものを取れるかどうかにによるわけです。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)

 

 

 

 

 

 法称(ダルマキルティ)は、唯識派(大乗仏教)の流れにいるにもかかわらず、その認識論は経量部(部派仏教)の説に負うところがあるということを、前回でも触れました。どのような説に拠ろうが拠るまいが自由でしょうという考え方もあるかもしれませんが、両派の思想の原則において対立するところがあるので、そう簡単ではないと考えられます。

 

 どこに対立点があるかというと、次の点です。

唯識派:認識の構造の中で、認識する側(認識主体=見分)および認識される側、認識の

     対象の姿(相分)の双方が識の中にある、識の中の出来事であると主張する。(逆に

     言えば認識主体も、認識対象の姿の双方とも外にはない)

経量部:認識対象の姿(相分)は外界の対象物からもたらされると主張する。

 

 この点をもう少し詳しく見てみると次の表のようになります。

 

 派    |外境(外界の物)は |知覚は外界の対象物を |対象物の姿は     | 主な

      |実在する       | そのまま映す       |外界からもたらされる | 論者  

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

説一切 |     〇       |        〇      |       〇     | ヴァスミトラ

 有部  |             |                |              |  

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

経量部 |     〇       |        ×      |       〇     |シューリラータ

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

有相  |      ×       |        ×      |       ×     |ダルマパーラ

唯識派 |               |                           |              |ディグナーガ

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

無相  |      ×       |        ×      |       ×     |スティラマティ

唯識派 |               |                           |              |

 

 経量部の主張を平易な言い方で表すと「外界の物は実在するし我々の認識にも影響する。しかし、外界の物は我々が認識した通りには存在しない」ということでしょうか?

 

 法称が経量部の主張に負ったのは、彼の提唱する認識論は、あくまでも凡夫の立場からの認識論であることと関係があるのかもしれません。

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)