陳那についてはいったんおきまして、今回から陳那の後継者である法称(ダルマキールティ、

Dharmakirti)について考えていきたいと思います。

 陳那については、「因明正理門論」等の漢訳があり、それらは日本にも伝わっているので、ある程度日本を含む東アジアでも知られていますが、法称(ダルマキールティ)の著作は漢訳されていず、「因明」での業績の大きさの割に、法称のことはあまり知られていないといってよいと思います。

 

 特に日本では、「信」と「行」が強く強調される傾向があるといわれており、認識論や論理学などの知識論は仏教界、新宗教界であまり顧みられていないといえます。(なぜ日本では感覚や直感が重視され、知識、合理性が軽視されるのかも興味深いところですが・・・)

 こうした中で、中村元氏は「彼(法称)ほどに合理主義を徹底した哲学者は、人類の思想史においても稀であろう」(ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想)とまで言っています。わたくしはなかなかそこまでは実感できていませんが。

 

 法称の思想哲学に入る前に、法称の生涯を簡単に見てみましょう。彼は600年に南インドでバラモンの家庭に生まれ、660年に没したといわれていますが、諸説あるようです。ですが一応この年代に沿ってみていきましょう。

 青年期に仏教に傾倒し、ナーランダ大学に唯識の泰斗である護法(ダルマパーラ)を訪ね、師事したと言われています。しかしながら護法は530年生まれ、561年没とされており、これでは対面することはできません。護法の弟子で同じくナーランダ大学で教鞭をとっていた戒賢(シーラバドラ、529年~645年)ならば、年齢的に師事することは可能でしょう。

 戒賢は、玄奘(602年~664年)のナーランダ大学における師匠でもありました。玄奘と護法の間にも、不思議な伝説があり、玄奘が護法から直接唯識の秘法を教えてもらったという伝説があります。この秘密の内容について、護法はふさわしい人が現れたならば、その人に伝えようと考えていたとのことで、玄奘以外には伝えていないとのことです。ですが、これも年齢的には無理な話でしょう。

 話を、法称に戻して、法称は「因明」に特に強い関心を持ち、陳那の弟子であるイーシュヴァラセーナから陳那の思想哲学を学びました。最終的には師を凌駕するほどであったといわれます。

 その後、いくつかの法論の伝説が残っています。

 ①バラモン哲学の一派、ミーマンサー学派のクマーリラとの論戦

   議論に勝ち、クマーリラを含む数百人を仏教に改宗させた

 ②同じくバラモンの一派、ヴァイシェーシカ派のカナーダ・グプタとの論戦

  仏教に改宗

 ③六師外道のジャイナ教、ラーフヴラティンとの対決

 

 これらが100%事実か伝説かはわかりませんが、バラモン哲学や六師外道との間で、何らかの論争があったことは間違いのないところでしょう。

 

 法称が亡くなり火葬にしたとき、荘厳華麗な花の雨が降 り、7日間全国 く まな く香 と妙 なる音楽で満たされたと伝えられています。こうした伝説は、後秦の訳経僧、鳩摩羅什を火葬にしたときに、青い蓮華が生えて、その上に鳩摩羅什の舌だけが焼け残って光を放った、という伝説を思い起こさせます。もちろんどちらも事実とは到底思えませんが。

 

 法称は、「因明」の思索研究に一生を費やしましたが、どうも納得がいかないのが、自分の研究する「因明」が、勝義諦(仏教の悟りの真理)に属するものではなく、俗諦(俗世間の真理)に属するものと位置付けていたことです。仏教者を自認するのならば、勝義諦を目指すものと単純に思うのですが、この辺りのモチベーションがどこから来たのか、興味が尽きないところです。

 

 

参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)「ダルマキールティの生涯と作品」(宮坂宥勝著)、「哲学・思想事典」(岩波書店)