法称(ダルマキルティ)の認識論について、考えています。

 

1.勝義諦と俗諦

 法称は陳那(ディグナーガ)の直接の弟子ではないが、仏教論理学(因明)分野での最大の後継者とされています。しかし仏教論理学とはいいながら、勝義諦=仏の悟りの視点からの論理学(仏の悟りからの論理なるものはないかもしれないが…)ではなく、俗諦(世間的視点からの真理)での論理学という位置づけであるのは、陳那も法称も変わらないと理解しています。

 この問題を、「認識する主体」と「認識される客体」(あるいは主観Subjectと客観Object)という視点で整理すると下記のようになるでしょう。

 

 (1)勝義諦:主客が分かれていない知、玄妙な仏の知

 (2)俗諦:主客が分かれている知、すなわち認識する側(主体)と認識される側(客体)がそれぞれあるとする場面での知識

 

2.外境実在説と外境非実在説

 俗諦や外道(仏教以外)における認識論は、外境実在説、すなわち認識する主体としての知とは別に、外界の対象物が存在するという考え方に沿っていると考えることができます。例えばバラモン哲学正理派は、外境実在説に立ち、知は外境をそのまま認識すると考えるようです。反対側から言えば、外界は知が認識したとおりに実在するという考えなのでしょう。

 これに対し、唯識が勝義諦に属すると考えるならば、唯識、有相唯識派は外境は実在せずに、すべては知の中に存在すると考えるようです。唯識派が存在を主張する阿頼耶識(あらやしき)に、外部環境と認識されるものの一切のタネ(種子;しゅうじ)があるとしています。

 

 われわれが普段日常生活を送っているとき、外部に認識対象がそのように存在することをほとんど疑うことはありません。そうでなければ日常生活を送ることはできないでしょう。しかし、よく考えてみると外部世界の存在は、かなり危ういものです。

 

 例えば、我々は緑色に見えるシャツを見て、「緑色のシャツだ」と認識します。しかし、緑色なるものに実体があるのでしょうか?最近の科学の成果によれば、緑色は、ある波長の光(電磁波)が網膜上にある受容物質に反応することにより認識されるものとしています。シャツはある波長の光を反射しているに過ぎなくて、シャツそのものが緑色というとらえ方には違和感があります。

 人間は赤、緑、青を感受できる物質を持つといわれますが、人間以外の動物では赤と青だけしか反応しない動物もいるようで、そうした動物にとっては、人間とは全く違うように世界が見えることになるでしょう。また人間より多い色を受容できる動物もいるようですが、そうした動物が認識したものを、人間は認識できない部分があります。人間が認識できないものは存在しないのでしょうか?

 また人間同士でも、ほかの人が感じている色の認識を直接確かめるすべはありません。言語で「緑」と言い合っていますが、果たして同じ色を緑と言っているのでしょうか?それはわかりません。

 また光が電磁波であるとすると、測定装置では波として測定されますが、光の実体は波形を描いた波なのでしょうか?

 

 色は視覚の問題ですが、触覚にも同様な疑問があります。物質は原子の集合体だが、原子の中の原子核と電子の間には広い隙間があります。人間が手で何かをつかもうとするとき、手と対象物質のそれぞれの原子は隙間だらけなので、手が物質の間を通り抜けても不思議ではありませんが、実際にはそのようなことは起きません。それは、電子同士がマイナスの電荷を帯びていて反発するからであるとのことのようです。ものに触れたとき我々は「かたい」「やわらかい」などの感触を感じますが、その感触はいったい何なのでしょうか?電子の反発の仕方の違いなのでしょうか?いずれにしても、その感触自身が実体を表しているとは思えません。

 

 このように、我々の外部世界の認識は、あやふやなもので確たるものではないといえます。

 

 こう見てくると、法称の認識論、外部非実在説に沿うように見えますが、外部実在説と非実在説の中間にある「経量部」の説を多く取り入れているとのことです。

 

 

 

 

‎参考文献:「インド人の論理学」(桂紹隆著)、「東洋の合理思想」(末木剛博著)、「講座仏教思想第二巻 認識論 論理学」(服部正明他著)、「講座大乗仏教9 認識論と論理学」(桂紹隆他著)、「インド仏教の歴史」(竹村牧男著)、「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」(中村元著)、「 哲学・思想事典」(岩波書店)‎