全く、何たる寒さですか。
完全に風邪を引いてしまったのか、起きたら10時半!
その後、結構朦朧としていて、ある程度外に行けるようになったのがもう14時です。
これはまずい!と思って、ちょっと考えてみましたが。
良く考えたら、プラモの箱がここ最近また増殖していましてね・・・
と言う事で、新居からもレンタル倉庫に箱を運んでみました。
あぁ、何と調子がちょっと良くなってしまった(爆)
そして、旧宅の風呂場は、到頭湯舟の奥側が見えるようになりました!
今まで、天井まであった箱は先日大分高さが減ったんですが、終に湯舟のへりが見えるまでに低くなりました。
ま、寒すぎて運ぶスピードは凄い落ちてますがね・・・
へー(棒)
何ですが、世の中と言うか周りの人は、ビビりまくりですね。
オミクロン株よりも、社会的制裁の方に恐怖を感じてます。
私はリモート勤務ですので、別に社会的制裁は一切ないですが、出勤必須の方とかは、確かに大変ですね。
でも、防ぎようがない程の感染力なのに、何でインフルや風邪とわざわざ分けて対応するんですかね?
英国は毎日新規のPCR検査陽性判定者数が10万人程度、死者は300~500人程度。
但し、人口が6,722万人。
日本は12,580万人なので、約半分程度。
つまり、日本ですと毎日新規のPCR検査陽性判定者数が20万人程度、死者は600~1,000人程度なら、もう規制は緩和して在宅勤務勧告を終了、と言う事です。
一概に英国が正しいとは言いかねますが、流石にちょっと何やってますかね、これ?と思いますがね・・・
前回までの「織田信長は天才か」!
Previously Is Nobunaga Oda Awesome? After Occupated Owari (4回目か5回目のFringeは、そろそろSeason1の最終盤。まだオリビエは殆ど自分の能力を知らない頃ですね。しかし、やはりカーク・アセヴェドが居ないSFなど、SF擬きですよね(爆)。ランス・レディックと言い、ジョン・ノーブルと言い、存在感が凄すぎるwここにレナード・ニーモイまで入るので、結構出演陣だけで凄いドラマですね。監督がJ・J・エイブラムスと言う時点で、更に撮影費用も高そうですし、良くこんなの企画しましたね・・・主人公の二人、アナ・トーヴとジョシュア・ジャクソンがはまり役過ぎですし、ジェシカ・ニコルとブレア・ブラウンも良くこの人を見つけてきたものだ、と。いやー、何度見ても良いですねー)
1. 再開のまとめ
2. 織田家の組織について-1
3. 織田家の組織について-2
4. 織田家の組織について-3
5. 織田家の組織について-4 (前回)
6. 織田家の組織について-5 (今回)
前回の続きになります。
今回は国人衆(外様)とその他です。
主な出典は、前回同様下記になります(敬称略)。
菊池浩之: 織田家臣団の謎
桐野作人: 織田信長 戦国最強の軍事カリスマ
谷口克広: 信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材
中川太古: 現代語訳 信長公記
今回は、今までと違って、ちょっと先に幾つか書いておきます。
先ず、外様とはここでは尾張国外の配下を持った部将、或いは足軽?を指しています。
通常、彼らが国人衆と一緒になって功を競う、と言うこと自体あり得ません。
普通は一歩引いて譲ります。
有力な勢力を持った国人衆が全勢力ごと下ってきた、とかなら別かもしれません。
しかし、それなら普通領地の城に籠って助けが来るまで籠城するでしょうしね。
例えば、武田家で言えば信州の海野家=真田幸隆がそれにあたります。
信州の有力国人衆で、一度領地を失って上野に逃れた後、信州に戻って武田信玄に仕えました。
武勇・知略双方に優れて、各地を転戦し、武田の24将にも数えられるそうですが、扱いはやはり外様。
最終盤には箕輪城代を務めた、とWikiには書いてあり、「これは譜代衆並みの扱いである」となっています。
しかし、今回登場する森可成(よしなり)は、美濃の国人衆(と言っても葉栗郡なので、尾張だったり美濃だったり、時期によって微妙なんですが)でありながら、普通に佐久間、柴田、丹羽らと一緒に功を競い、南近江に領地を貰ってます。
羽柴、明智も同様です。
滝川は担当方面が伊勢ですが、扱いは同じです。
羽柴秀吉、滝川一益、そして蜂屋頼隆に該当する者を武田で探すとすれば、原虎胤、小畠虎盛、等でしょうか?
武田信虎が自分で拾い上げた、他国の浪人と言うか武人です。
それぞれ非常に活躍したのですが、結局板垣、甘利ら当時の甲斐国人衆のトップが反発し、信虎は今川流しの刑になりました。
前にうっかり馬場の名前も挙げてしまったのですが、馬場は正直怪しいですね。
馬場の美濃守の名乗りは、原の名乗りから来ているとの説がWikiに書いてあったので、もし本当なら馬場は反発しなかったかもですね。
それ位異常な事なんです。
ましてや、信長がやったような方面軍の司令官を任せるなんてありえません。
何で信長はそんなことが出来たのか?と言えば、反発した国人衆を全部叩きのめしてしまったからです。
しかし、本来家柄と権威が物を言う戦国時代は、極めて異常な体制であることを強調しておきます。
1. 森可成
2. 蜂屋頼隆
3. 金森長近
4. 羽柴秀吉
5. 滝川一益
1. 森可成
葉栗郡蓮台村の出身とされています。
現在の行政区画で言うと岐阜県のようですが、葉栗郡が当時は尾張でしたので、国境付近なのでしょう。
清州攻めの際には既に名前が出ていて、守護代の織田信友を討っています。
森一族としては土岐氏に仕えていたようですが、どう言う経緯で可成が信長に仕えたのかは今一不明のようです。
先ほど書きましたように、この後生涯を通して信長に従って転戦し、上洛戦後は南近江の宇佐山城を受け持っていました。
しかし、浅井・朝倉連合軍がやって来た際に坂本で迎え撃ち、戦死を遂げてしまいます。
子供の方は可隆は朝倉攻めの際に手筒山城で討ち死に、長可が小牧・長久手の合戦で徳川家康相手に討ち死に、蘭丸、坊丸、力丸は本能寺の変で討ち死に、忠政は生き残って中島藩、津山藩の藩祖となります。
中々壮絶な一族ですね。。。
2. 蜂屋頼隆
美濃の蜂屋出身と思われますが、どう言う経緯で信長と出会って仕えるようになったか、一切不明です。
信長が将軍義輝に会うために上京した際に、蜂屋の名前が見えるので、恐らくその頃には既に馬廻り衆だったと思われます。
つまり、前田利家や佐々成政、丹羽長秀同様のポジションだった訳ですが、国人衆でもないのに同じ待遇と言う時点でかなり奇怪な事態です。
先ほどの武田と真田の例で言えば、幸隆は信玄に仕えた後に人質として昌幸を小姓に出しています。
昌幸は正に利家や頼隆と同じポジションになっていきますが、普通はこの国人衆の人質パターンです。
昌幸の息子の幸村(信繁)も上杉景勝、そして豊臣秀吉に人質としての小姓として差し出されます。
一方、頼隆は国人衆の息子かどうか分かりませんし、尾張の出身でもない。
それなのに馬廻り衆に抜擢され、最終的には利家、成政、長秀同様の遊撃軍司令官の地位に上り詰めます。
余程優秀な軍人だったのでしょう。
3. 金森長近
美濃国土岐群多治見郷大畑村の出身、と随分細かいところまで特定されています。
と言うか、令和年間より行政区画の階層が多くないですか?
その後、近江野州郡金森に引っ越し、金森を名乗ったそうです。
信秀に仕えたとされていますが、その経緯はやっぱり良く分かりません。
しかし、名前は信長の代になってもあちこちで出てきます。
長近の長は信長からの偏諱だそうで、長篠の合戦の後に貰ったそうです。
この時長近は酒井忠次と一緒に鳶の巣山の武田方の拠点を落としていますので、武人として優秀だったようです。
天正10年に兵部大輔を授かり、本能寺の変の後は秀吉、家康と仕えたようです。
飛騨国高山藩祖となり、生涯を全うしたようです。
ここからその他、つまり完全なる浪人上がりになります。
実は外様衆はもっと沢山いると思ったんですが、尾張統一完了時点、と制限をかけてしまうと意外と判明している人は少なかったです。
浪人上がりとなると、戦国時代の常識外れも極まれり、と言う状態になります。
しかし、このその他から方面軍司令官が2名、後の明智光秀もその他にカウントすると3名が出ています。
その次が連枝衆の信忠、信孝、そして国人衆の佐久間信盛、柴田勝家、外様が荒木村重(個人的には森可成もここ)と言う事で各二名ずつ(あるいは一名)、ですので、実は浪人上がりが一位と言うとんでもない組織です。
4. 羽柴秀吉
秀吉は謎が多すぎて良く分かりませんが、出身は愛知郡御器所中村とされています。
名前は、井沢元彦氏によれは「稗吉(ひえよし)」だったのではないか?とされています。
当時の農民は、子供に食べ物の名前を付けて、その食べ物に困らない人になるように、と言う信仰とでも言うべきものがあったようです。
信長に出会ってからの秀吉については、一見色々と分かっているように見えて、実際には美濃攻めが始まるまでは信長公記にも名前は殆ど出てきません。
木下の姓も実は正妻のお寧の母方の姓では?とされいて、右手の指が6本あることも伏せられていたなど、色々と謎の多い人物です。
尾張統一戦の時には信長に仕えていたことは間違いないようですが、具体的な時期などは一切不明です。
秀吉は所謂経営者の才能があり、人を組織して使うことが出来ました。
政治、軍事、経済と全てに対応出来て、人心掌握術も信長よりも上。
信長はこう言う人材を非常に好み、秀吉と明智光秀は徹底的にこき使われることになります。
5. 滝川一益
滝川一益も信長と出会うまではあまり良く分かっていません。
甲賀の出身とされていますが、色々と悪辣なことをやって尾張に流れてきたとか。
鉄砲が得意、との触れ込みで信長に近づいたようですが、実際には徹頭徹尾軍人と言うべき人のようです。
「進むも滝川、退くも滝川」と言われ、非常に用兵が巧みだったようで、その上外交や調略も出来、恐らくですが佐久間や柴田より余程軍人としては優れていたように思えます。
但し、政治(室町時代の近畿、中国地方のドロドロしたやつ)・経済には疎かったようで、あまりそれらの才能を使用しない関東・北陸を担当していました。
恐らく、方面軍司令官の走りのような人で、信長からは伊勢方面の攻略を担当させられていましたが、こう言う担当を命じられたのは、恐らく一益が初めてかと思われます。
一益は期待に応え、蟹江に服部左京進をだまして本願寺の金と資材で城を築き、服部を追い出して前線基地にしてしまう、或いは北伊勢の国人衆を調略する、家康との同盟を工作する、等々色々と結果を出しています。
信長から関東管領に命じられ、上野を与えられますが、本能寺の変が発生。
その後は秀吉と勝家、家康の争いに巻き込まれ、最終的には秀吉の配下となって余生を送ります。
と言う事で、尾張統一時点での織田家の組織についてでした。
外様とその他については、当時の戦国時代の常識とは余りにもかけ離れているので、但し書きが必要かと思いました。
しかし、これらはまだ信長の780万石を実現した脅威の政治力にはあんまり関係ありません。
次回からは、その脅威の政治力を発揮した土台の一つ、織田弾正忠家とは?を書いていきます。
この辺りから、段々「嘘だー」とか「話が違うぞ!」とか出てきます。
全く、学校の歴史教科書は酷いものでしたね・・・