「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」やで…。
などと、女子校生になった娘に教えている今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
いろいろあった2020年も残すところひと月となりましたね。
お元気にしておられますか。
早いもので。このブログに登場していた上の娘も高校生になっております。彼女自身の言葉を借りれば「JK」です「JK」
自分がJKの父になる日が来るとは…。
でも面白いもので、中学生から高校生になってくると、存在の発する氣が整ってくるというか、大人びた雰囲気を漂わせ始めるんですね。
中学生の頃はなんというか、とにかく氣が散らかっているし雑だし、ほんと存在感自体がうるさい感じだったのですが、それが高校生になるとスッと整ってくる。品性が備わってくるような感じがあります。
それが傍で見ていてなかなか興味深かったりします。
とはいえ、家ではでろーんとくつろいでいたり”あけすけ”だったりするものですから先の言葉、「秘すれば花なり」が出てくるわけです。
「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」
能について説いた世阿弥の言葉ですが、谷崎潤一郎はそれをエロスの文脈で使いました。まさに私もその意味で使っています。
「いやいや、下着姿で歩くなよJK。秘すれば花なり、やで…」と。
そして、今日はこの秘することの力について、お話したいと思います。
私達に良くも悪くも影響を与える、力についてのお話です。
例えば宗教の世界では多くの儀式は秘して行われその内容も秘伝として伏せられていますし、仏教では人目に振れず隠された仏様や何十年に一度だけ公開される秘宝などがありますね。
秘することで生み出し維持されている力があります。
また我が国の陛下と国民の関係などは象徴的で、普段何をされているのかも多くは秘したまま。そして権力を誇示することなくそれを控える陛下のお人柄と在り方によって、私達はお慕いするものです。
多くを語ることによってではなく、むしろ語られないことによって、生み出される絆があるのですね。
そしてこの力が、心の世界を扱う上でもとても大きな鍵となります。
私達カウンセラーは目の前のクライアントさんが何を語っているのか?以上に「何が語られていないのか?」や「何に意識が向けられていないのか?」を聞き取ろうとしています。
秘められたままになっているからこそその人を縛っている何か。
それを見ようとします。
ずっと自分を犠牲にして生きてきて、損ばかりしてきてうんざりです!と訴えるクライアントさんの無意識を紐解くと、「お母さんが可哀想。お母さんを救いたい」という思いに行きつくことがあります。
自己犠牲をしてでもお母さんを救いたいという無意識の意図を持っていて、その無意識の意図を現在に投影しながら生きているので、
気づかずに誰かを助けてばかりの自己犠牲的な生き方をしてしまっていたり、困った人ばかりを周りに集めてしまったりして、人生が誰かのために消費されてしまいます。
ではなぜ、それほどまでにお母さんを可哀想だと感じたのか? 自分を犠牲にしてまで救いたいと思わせるだけのお母さんの姿とはどんなものだったのか?とセラピーで紐解いていくと、そこで出てくるのは、
「つらい!つらい!」と困り果てているお母さんであることはむしろ少なくて、
「お母さんが我慢して頑張っていたから」ということの方が多いものです。
つまり、「辛さ」を表すのではなく秘することで我が子に対して力を生み出していたのです。
お母さんは我が子への愛から、子供たちに悟られまいと、自分の辛さを隠し、明るく振る舞いました。
でも、秘すれば花。秘したものにこそに力は宿り、子供はその秘めた母の辛さを慮り、それによって縛られいたのです。
逆に、『秘せずは花なるべからず』というのもその通りで、もしお母さんが「しんどいわー。辛いわー」などと言葉にしていると、子供は「しらんがな!」と、思春期になればちゃんと反抗できるものです。
「お母さんもうちょっと大人になってよ」とか「お母さん嫌い!」とか。
それは幸福ではないにせよ、健全な境界線の引き方ですね。
でも、表に現されることなく秘したままの思いには独特の引力が宿り、周りの人を無意識に縛ります。
そのため、私達がその縛りを解くためにセラピーを通じてやっていることというのは、秘したままになっていたもののフタを開けて、それを1つ1つ意識の光に晒していくことです。
面白いもので、秘されたものもちゃんと表に現して意識の光を当ててみると力は失われていきます。そこに宿っていた不思議な力、エロス的な何かが蒸発して行くのです。
あんなに可哀想で心を寄り添わせてきた母の「つらさ」も、よくよく表に出して光を当ててみると、「いや、それ大人やったら誰でもあるつらさでしょ…」と、その記憶に宿っていた威光が失われ、ただの事実に変わり、その人を縛っていた魔法が解けていきます。
同じように、恥ずかしくてみじめで直視することの出来なかった過去の記憶なども、フタをして秘めていると私達を縛るトラウマとなりますが、フタを開けて整理して意識の光を当てることで、影響力を蒸発させていくことができます。
過去は変えることはできない、と言われていますが、
秘することによって力を持たせたままになっている過去を、秘せずとすることで威光を抜き取り、単なる出来事に変えていくことはできるのです。
さてさて、軽く書くつもりがなんだか重たい話になってしまった感がありますが、大丈夫でしょうか…。途中で方向転換もできず引き返すこともできませんでした…。
なので、このまま振り切って、ザクッとまとめるとですね。
今日のお話で意識してほしいことは以下の4点です。
・自分の中に秘していることによって自分を縛っている記憶はないだろうか?
・何かしらの思いや感情を秘することで重力を生み出し、周りに悪影響を与えてしまっていないだろうか。
・むしろ良き思いや良き意図を秘することで、自分に良き重力を宿らせるような、そんな力の使い方はできないものだろうか。
・多くを語らずに秘しているものの大きさによって「この人好きだなー」と惹かれるようなタイプの人が周りにいないだろうか。
などなど。
ちょっと深めてみてくださいね。
「表現されず、知ってもらえていないものは存在していないことと同じ」、というのが最近の世の風潮ですが、私はそれは半分の真理に過ぎないと思うんですね。
もう半分は、
語られていないものの重さ、によって私達は突き動かされていますよね。