【補記】
歎異抄に書かれていることは、どれもみな世の中に蔓延している「間違った他力の教え」を嘆くものばかりです。
法然上人や親鸞聖人から直接教えを聞いていた人でさえ、間違いを起こしてしまうのは、なぜなのでしょうか。
私達が、教えを正しく聞くことができない大きな要因の一つに、自己愛(という煩悩)があります。
私達は普段、大人になれば善悪の判断くらい、正しくできて当然だと思っています。
しかし、本当のところはどうでしょうか。
たとえば、あなたが電車に乗り、空いている席を見つけた時、反対側から走ってきた人が、あなたの座ろうとしていた席に割り込んできたら、どうでしょう。
大抵の人は、順番も守れない相手のことを、悪く思うのではないでしょうか。
しかし、もしもあなたが逆の立場だったら、どうでしょう。
その日、あなたは大切な約束をしていて、どうしても目の前の電車に乗る必要がありました。しかし、そんな日に限って体調が悪く、電車で立っているのも辛い状況です。そんな時、あなたは自分の手の届く範囲に、一人分の席が空いているのを見つけます。あなたは思わず、その席に向かって走り出しました。
このような状況下で、「今、自分は悪いことをしている」と素直に反省できる人が、一体どのくらいいるでしょうか。
大抵の人は、「これだけ体調が悪いのだから仕方ない」「みんな分かってくれるはずだ」と、勝手な自己弁護をして、納得してしまうのではないでしょうか。
私達はいつもいつまでも、自分だけは特別で、自分だけは正しくて、我が身を可愛く思う心から、決して離れることができません。
自己愛という分厚いフィルターに目隠しをされている私達は、結局のところ、自分の都合という色メガネでしか、善悪を判断することができないのです。
このような心の癖があるために、私達は、教えを正しく聞くことができません。
さらに悲しいことに、私達は常に目隠しをされている身の上でありながら、そのことにさえ気づかず、自分だけは善悪を正しく判断していると信じて疑わないのです。
そういう私達にとって、「ただ念仏に救われる」という他力の教えは、大変に聞きにくいものなのでしょう。
むしろ、「寄付は尊い行為」「仏方のために、より多くの奉仕をした者が救われる」「日々の努力が大切なのだから、寄付も奉仕も怠けてはいけない」と教えられた方が、よほど聞きやすいのではないでしょうか。
そうして「間違った他力の教え」を実行し、自分がしている行為(自力)にすっかり満足してしまうのが、煩悩具足の凡夫が凡夫である何よりの証拠なのでしょう。