【補記】

歎異抄最後の条文となる第十八条には、布施(お寺や僧侶に、金品もしくは対価の代わりとなる労働力を提供すること)の有無や、その大小によって、仏の救いが変化することなど有り得ないということが、かなり強い言葉で記されています。その文脈からは、著者のやり場のない怒りや嘆きが伝わってくるようです。


仏教に限らず「宗教とお金」という問題は、私達に煩悩がある限り、決して避けて通ることのできないものなのでしょう。


この問題について、お釈迦様は、次のような言葉を残しています。


【要約】

さとりをひらいた者は、法(教え)を聞かせた報酬を受け取ってはならない。さとりをひらいて仏と成った者は、これらの報酬を排除する。法が存続する限り、これが決まりである。

(スッタニパータ 耕筰者バーラドヴァージャ)


本来、宗教団体とは、どうあるべきなのか。「宗教とお金」という問題に、どのような答えを出すべきなのか。私には、よく分かりません。


お釈迦様が「法をお金に代えてはいけない」と教えていることも、その真意を正しく理解するためには、お釈迦様と同じさとりをひらいて、仏の知恵という広い視野を持つ必要があるのでしょう。それは、一介の凡夫である私には望みようもないことです。


私に分かることは、どれだけ優れた仏教者であっても、さとりをひらかない限り、煩悩から離れることはできないということです。


煩悩がある限り法を聞かせた謝礼として、お金を貰うという経験をした時に、「もっとお金が欲しい」と思う心を完全に排除することは難しいでしょう。


どこにでもいるサラリーマンの私は、現時点で、たまたま仏教以外のことで生計を立てていられるから、「法をお金に代えてはいけない」という内容をブログに書くことができたのでしょう。


けれど、もしも私が仏教で生計を立てる側の人間だったとしたら、同じ内容をブログに書くことができたのか、自信がありません。


私達の心というものは、大変に頼りなく、ほんの些細な刺激で、どんな色にでも染まってしまうものです。


美味しい食べ物を口にすれば、もっと食べたいと願い、百万円を手に入れれば、一千万円が欲しくなり、恋愛対象となる相手が目の前を通れば、その行く先を自然と目で追ってしまいます。


そういう私達ですから、仏教を聞く時も、ただ素直に聞くという訳にはいきません。


ある人は、仏教を聞いた自分が、賢い者にでもなったかのような勘違いを起こし、まだ仏教を知らない人達を、勝手に憐れんだり見下したりするかもしれません。


ある人は、相手の都合も考えずに、自分が感動した仏教を、無理矢理に押し付けてしまうかもしれません。


また、ある人は、仏教という尊い教えを聞かせているのだから、その対価としてお金を支払うのは当然だと思い、この世で仏教以上に尊いものはないのだから、支払うお金を惜しむのは、仏方への感謝が足りない証拠だと主張するかもしれません。


どんな立場の、どんな人であっても、心に煩悩がある限り、このような過ちを平気で犯してしまうものです。


これは、仏教を聞く全ての人が、よくよく気をつけておかなければならないことなのでしょう。