【補記】

私達が暮らしている現代の日本は、かつて人類が経験したことのない便利で豊かな社会です。


スーパーには溢れんばかりの食品が並び、コンビニは年中無休で営業を続けています。病院へ行けば薬が貰え、電話一本で警察が駆けつけてくれます。どれだけ格差社会が問題視されていても、道端で野垂れ死にしている人を目にすることなど、まずありません。


そのような恵まれた社会に生まれた時、人は何を望み、どんな生き方をするのでしょうか。


煩悩具足の凡夫である私達は、目先の欲を満たすことばかりに夢中で、人生という限られた時間を、いたずらに消費してしまいます。


魅力的な品々に囲まれた現代の日本で、最新のスマホや高価なブランド品よりも、極楽浄土への往生を望む人が、一体どのくらいいるでしょうか。


そのような私達に、どれだけ極楽浄土の素晴らしさを説いても、往生へ心を向ける人が少ないことなど、仏方は最初から知っていたのではないでしょうか。


だからこそ仏方は、私達一人一人が(往生の要である)信心を得るまでに必要な時間を過ごすための場所(仮の浄土)を用意したのでしょう。


この世で信心を得ることは難しくても、とにかく「南無阿弥陀仏」と口にするのであれば、仮の浄土へ救い取る。


この約束があるからこそ、南無阿弥陀仏の六文字には、全ての人を救う功徳が備わっているのです。


人として生きている間に、さとりをひらいたり、信心を得られるのなら、それが何よりでしょう。


さとりには程遠く、信心さえも得られない。そのような私達であっても、決して見捨てることなく救い取ろうとする仏方の知恵と慈悲が、南無阿弥陀仏の念仏なのです。