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【補記】

多くのことを学び、沢山の経験を重ね、自分の力で、一つ一つ目標を達成していく。それこそが人生の目的であり、生きる喜びである。


現代人の多くが、そう考えているのではないでしょうか。


それがどんなことであれ、自分が決めた目標を達成するというのは、何とも気持ちの良いものです。


このように、私達が前を向いて生きていくためには、目標というものが必要不可欠です。ただ飯を食い、排泄をし、眠るだけの毎日を楽しく生きていける人など、まずいないでしょう。


私達は日々、小さなことから大きなことまで、数えきれない目標を持ち、それらを達成させようと必死になって生きています。


目標を達成して、その成果を手に入れることができれば、人は幸せになれる。そう、誰もが信じて疑いません。


しかし、百万円を手に入れれば一千万が、一千万を手に入れれば一億円が欲しくなるのが、煩悩具足の凡夫である私達ではないでしょうか。


それでは、どこまで行っても本当の意味で幸せになることはできない。幸せになりたいという執着心こそが、実は苦しみの根源なのだから、欲しがるのではなく捨ててしまいなさい。そこに「心の平穏」という本当の幸せがある。そう教えているのが仏教です。


仏教の目的である「さとりをひらく」とは、たとえ飯を食い、排泄をし、眠るだけの毎日であっても、心を安らかに保てる状態になったということです。


こんな生き方をしたい、人生とはこうあるべきだという命の根源にある欲求にさえ執着することなく、この世界の真実を知り、二度と心を乱されることがなくなった。そういう人のことを「仏」と言い、そのような状態に成ることを「成仏する」と言います。


お釈迦様(という仏)が、人としての命を終えてから、長い年月が経った現代を、仏教では末法の時代と言います。


末法とは、僅かに教えだけが残り、正しく修行する人も、さとりをひらく人もいなくなった時代のことです。


そのような末法の現代で、自分の力で修行をして、全ての執着から離れることが、果たして私達にできるでしょうか。


あなたやあなたの周囲に、何一つ欲しがらず、何者にも執着せず、あるがままに生きている人が、たった一人でもいるでしょうか。


欲に心を奪われ、自己愛に目を塞がれて、幸せになるつもりが、実は苦しみの種ばかりを蒔いているのが、私達の本当の姿ではないでしょうか。


そのような私達を憐れに思い、遠い未来を生きる私達にも、さとりをひらく道を残してくれた仏方の知恵が、南無阿弥陀仏の念仏です。


仏方の広大な知恵に触れ、ただお任せできる状態に心が定まる。それさえも、仏方のはたらきによるものだと知り、ただ感謝の言葉が口を出る。それが、他力の信心であり、他力の念仏なのです。