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【補記】
仏教の世界で「機」とは、私達「今を生きている人」を指す言葉です。
 
阿弥陀仏が、正に救い取ろうとしている機とは、悪人である。
 
このような解釈の仕方を、悪人(あくにん)正機(しょうき)と言います。
 
親鸞聖人が「悪人こそ救われる」と言っているのは、悪人正機という解釈を前提とした悪人のことです。
 
それでは、悪人正機という解釈を前提とした悪人とは、具体的に、どんな人のことを指しているのでしょうか。
 
その悪人とは、ほんの一時も煩悩から離れることができずに、迷い苦しんでいる人のことです。
 
その悪人とは、自分の力では、とても迷いと苦しみの世界を離れることがてきない愚かな私だったと思い知った人のことです。
 
そして、その悪人とは、今を生きている全ての人のことです。
 
さとりをひらいた仏の目から見れば、全ての人は、欲や怒りや憎しみの炎に焼かれて、悶え苦しんでいる愚かで憐れな悪人です。
 
親鸞聖人が「悪人こそ救われる」と言っている、その悪人とは、道徳的なルールを破った人のことでもなければ、自分にとって都合の悪い人のことでもありません。
 
今、こうして生きている私達が、本当はどんな姿をしているのか。その有り様に気づいて、自分の非力を思い知った人。それが、悪人正機という解釈を前提とした悪人です。
 
日々、煩悩に目を眩ませている私達に、本当の姿を見せてくれる鏡が仏の知恵であり、その姿に驚いて戸惑う人々を、等しく救い取るのが仏の慈悲です。
 
そのような知恵と慈悲に照らされて、初めて、阿弥陀仏の本願(他力)を頼みとする心は芽生えます。
 
それまで、自分の力で何でも解決できると自惚れていた心が折れて、他力を頼む心が起きた。それが、悪人正機という解釈を前提とした悪人だから、もっとも救われやすい人もまた、悪人なのです。