【原文】
ひそかに愚案を回らして、ほぼ古今を勘うるに、先師口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑有ることを思うに、幸に有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚語をもって他力の宗旨を乱すことなかれ。よって、親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留る所、いささかこれを記す。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々。
【意訳】
愚かな私なりに思うことは、親鸞聖人がいらっしゃった頃と今とを比べてみると、この頃では、親鸞聖人が仰っていた真実の信心とは異なる教えが説かれているようで、何とも嘆かわしい限りです。
これでは、教えを受け継いでいく後世の人々の疑いを増すばかりです。
縁あって正しい教えを聞いてこそ、真実の信心を得ることができるのですから、個人の勝手な思い込みで親鸞聖人が仰っていた他力の教えの意味を取り違えることなど、あってはならないことです。
このような現状を踏まえ、今は亡き親鸞聖人が仰っていた言葉の中から、耳の底に残っているものを、いくつか書き残すことにします。
これはただ、南無阿弥陀仏の念仏に救いを求める人々の疑いを晴らし、一人でも多くの人が、真実の信心を得て欲しいという気持ちからしていることです。
【補記】
歎異抄は、親鸞聖人の弟子である唯円が書いたとされています。
唯円は序文の中で、歎異抄を書いた理由について「他力の教えが正しく説かれていないため」と記しています。
親鸞聖人が亡くなった後、他力の教えは、どうして正しく伝わらなかったのでしょうか。
たとえば「命あるものは、必ず死ななければならない」という教えのように、他力の教えもまた、誰の目から見ても疑いようがないものなのであれば、唯円が嘆いているようなことは起きなかったはずです。
しかし現実には、唯円が生きていた時代でも、私達が生きている現代でも、他力の教えは、人々に大きな誤解を与え続けています。
たとえば「他力本願」という言葉を聞いて、その本来の意味を知っている人が、どれだけいるでしょうか。
多くの人は「他人の力を頼りにして努力をしない怠け者」という意味で、他力本願という言葉を使っているのではないでしょうか。
それは、親鸞聖人が教えた他力の教えとは、まったく別のものです。
本来、他力とは阿弥陀仏という仏のはたらきだけを指す言葉であり、本願とは阿弥陀仏が建てた「全ての人を等しく救い取る」という願いだけを指す言葉です。
自分以外の他人の力という意味でも、他人の力を頼りにする私達の願いという意味でもありません。
しかし、他力本願の本来の意味を聞いて、その通りだと素直に納得できる人というのは、決して多くはないでしょう。
人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに夢中になっている私達にとって、他力本願とは 「他人の力を頼りにして努力をしない怠け者」という意味の方が、よほどしっくりくるのです。
そのような誤解が起こってしまう原因は、一体どこにあるのでしょうか。
その根底に、私達が本当の意味で他力の教えに救われ、真実の信心を得るための大切なヒントが隠れているように思えてなりません。
唯円が歎異抄に込めた想いを紐解きながら、誤解ばかりを繰り返してしまう私達の心の有り様を見つめ、親鸞聖人が教えた真実の信心、本来の他力の教えに迫ってみたいと思います。