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この世は、思い通りにならないことばかりです。
 
取りたくないに年を取り、病みたくないのに病気になり、死にたくないのに死んでいかなければなりません。
 
天災も人災も、こちらの都合などお構い無しにやってきて、大切な人と暮らしを奪っていきます。
 
そのような場所で、私達の思い通りになることなど、どのくらいあるでしょうか。
 
どれほど科学や医学や経済が進歩しても、人の力には必ず、限界というものがあります。

この世で、思い通りに人々を救うことができる人など、一人もいないのです。
 
大切な人が重い病気になった時、その病気を治してあげることも、その病気による苦しみを代わりに引き受けてあげることもできないのが、この世の現実です。
 
だからこそ高僧方は、口を揃えて「信心を得ることを急ぎなさい」と勧めているのでしょう。
 
この世が、どれほど厳しい場所であっても、信心を得たのなら、まず自分が救われ、さとりをひらき、今度は、その知恵でもって、自由自在に人々を救うようになります。

その人々の中には、三世因果の道理の中で、迷い苦しんでいる大切な人の命も、きっと含まれていることでしょう。

そのことを、お釈迦様は、このようなたとえ話にしています。
 
【要訳】
ある時、一人の若者が、お釈迦様に尋ねました。
「私の母が、大変重い病気にかかって亡くなりました。せめて、あの世で安らかに暮らせるようにと、毎日、寝る間も惜しんで念仏をしています。母は、極楽浄土へ往くことができたでしょうか」
すると、お釈迦様は、近くにあった小石を拾い、そっと池へ投げ入れました。
小石は波紋を広げながら、池の底へと沈んでいきます。
その後で、お釈迦様は、このように問いかけます。
「この池の周りを歩きながら、小石よ、浮かんでこい、小石よ、浮かんでこいと念じ続けていれば、小石は浮かんでくるだろうか」
 
この人生で最も優先されることは何なのか。それに気づいて、その解決を求めることができるのは、人として生きている、ほんの短い間だけです。
 
幸いにも、私達はまだ生きています。
 
人としての残された時間を、一体何に使うのか。その優先順位を間違えてはいけないと、お釈迦様は教えているのです。