特効薬の無い新型ウィルスの恐怖が、私達の生活に大きな影響を与え始めています。
しかし、そもそも私達は、どうして新型コロナウィルスが怖いのでしょうか。
私達が不安に思ったり、恐怖を感じたりする根底には、必ず、死にたくないという生存本能が存在します。
人に限らず、全ての命は、死ぬことが怖いのです。
死ぬことが怖いから、危険を回避して生き延びようとする知恵が身に付くのでしょうし、そうでなければ、その種族は、あっという間に滅んでしまうでしょう。
これを、新型コロナウィルスに当てはめてみると、どうでしょうか。
報道されている情報が正しければ、新型コロナウィルスの致死率は、1%程度だそうです。
仮に、新型コロナウィルスにかかるのが1,000人に1人という割合であれば、日本人1億2,000万人の内、12万人が新型コロナウィルスにかかり、その内の1,200人が亡くなることになります。
あなたは、この数字を見て、どう思ったでしょうか。
ある人は、死者数の多さに恐怖を感じたかもしれません。また、ある人は、思っていたよりも死者数が少ないと感じたかもしれません。
いずれにせよ、この12万人もしくは1,200人の中に、自分や自分の家族だけは入ってほしくないと、誰もが願うはずです。
ニュースで報じられる1,200人という死者数は聞き流せても、身内1人の死を素通りできないのが、煩悩具足の凡夫である私達です。
そのような私達の前に、もしも致死率100%の新型ウィルスが現れたら、一体、どんなことが起こるでしょうか。
おそらく映画さながらの、世界規模での大パニックが起こるでしょう。
新型ウィルスの脅威にさらされた人々は、世界のありとあらゆる場所で生き延びるための争いを起こし、罹患者への容赦ない迫害が当たり前のように行われるでしょう。
しかし、私達は生まれた時から、罹患率100%かつ致死率100%の病にかかっているのです。
それは、老いという病です。
これを聞いて、当たり前だと笑う人もいるかもしれません。
けれど、この当たり前のことを、我が身に起きる現実として真摯に受け止められている人が、どのくらいいるでしょうか。
それが新型ウィルスであれ、老衰であれ、人は、生まれたからには、いつか必ず死んでいかなければなりません。
老いだけではなく、不慮の事故や災害で亡くなる人もあれば、自ら命を絶つところまで追い詰められてしまう人もいます。
新型ウィルスが流行しようとしまいと、明日、生きていることが約束されている人など一人もいないのです。
それにも関わらず、煩悩具足の凡夫である私達は、新型ウィルスの感染拡大の時には緊急事態だと大騒ぎをしても、いつ死んでしまうか分からない身の上であるという現実には驚きもせず、他人事のように平然としていられるのです。
もしかしたら今日、マンションのベランダから落ちてきた鉢植えに頭を打って死んでしまうかもしれない、と大騒ぎをしている人を見たら、あなたはどう思うでしょうか?
きっと、まともには取り合わないでしょう。
いつ死んでしまうか分からない身の上であるということを、我が身に起きる現実として真摯に受け止められていないということは、そういうことなのです。
私達が死んだ後のことを、仏教では後生と言います。
浄土真宗の開祖である親鸞聖人も、八代目の宗祖であり浄土真宗を全国へと広めた蓮如上人も、この後生を解決することこそ、人生における緊急かつ最大の問題であると教えています。
後生を解決するとは、私達が死んだ後、一体どうなるのかという問題を解決するということです。
私達が、いつ死んでしまうか分からない身の上なのであれば、自分の死後の行き先がはっきりとしない限り、本当の意味で安心や満足を得ることは難しいでしょう。
ほんの一時、死の恐怖から逃れてみたところで、いつか必ず逃げ切れなくなる日はやって来ます。
それが、ある人には老衰という形で、ある人には事故という形で、またある人には新型ウィルスという形でやって来るという違いがあるだけの話です。
死の直接的な原因となる目先の現実を解決することにだけ必死になっていても、死の恐怖から救われることはありません。
煩悩具足の凡夫である私達が、いつ死んでしまうか分からない身の上であるということを、我が身に起きる現実として真摯に受け止めるためには、新型コロナウィルスの感染拡大が続いている今が、適した時期なのかもしれません。
せわしなく過ぎていく現代社会の中で、時にはじっくりと立ち止まって、静かに仏の教えに耳を傾ける機会があってもいいのではないでしょうか。
人生において、本当に大切なことは何なのか。どうすれば私達は、本当の意味で幸せに生きていくことができるのか。
それを説いているのが、仏教なのです。