正信(しょうしん)()とは、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の主著『(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)』の中に書かれている、7文字×120行、計840文字で構成された(うた)のことです。偈とは、詩という意味です。

 

正式名称を、正信(しょうしん)念仏(ねんぶつ)()と言います。

 

正しい信心で、南無阿弥陀仏という念仏をするための詩。それが、正信偈です。

 

親鸞聖人の教えが、ぎゅっと詰まっている正信偈は、この十四文字で始まります。

 

【原文】

帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)

南無(なむ)不可思議光(ふかしぎこう)

正信偈12行目)

 

【意訳】

阿弥陀仏を心から信じて、私の命の行き先は、そのまんま阿弥陀仏にお任せします。

 

これが正信偈に書かれていることの結論です。

 

そして、このような状態に救われることが、浄土真宗のたった一つの目的です。

 

とてもシンプルで、そのために誤解もされやすい浄土真宗の教えを、多くの人々へ正しく伝えるために、親鸞聖人は馴染みやすい詩という形にして、正信偈を書き残したのでしょう。

 

早くに両親を亡くした親鸞聖人は、わずか九歳で出家をし、天台宗の僧侶となりました。

 

それから二十年間。比叡山で厳しい修行をし、それでも真実の仏教に出会うことができずに、泣く泣く山を下りました。

 

そして京都の町で、浄土宗の開祖である法然上人と出会い、ついに真実の仏教を聞くことができたのです。

 

法然上人は、阿弥陀仏が完成させた南無阿弥陀仏という念仏の功徳によってのみ、全ての人は極楽浄土へ救われることができると教えました。

 

親鸞聖人は、ただ、その教えの通りに救われるという体験をした当事者なのです。

 

どれだけ修行をしても、さとりをひらくどころか、煩悩の一つさえ無くすことができなかった。そのような愚かな者でも、南無阿弥陀仏の念仏は救ってくれた。それが、言葉では言い尽くせないほどに有難い。このような救いがあることを、人々に伝えなければならない。

 

その想いが、親鸞聖人九十年の生涯を支えたのです。

 

南無阿弥陀仏の念仏に救われるということに関しては、仏教の知識がどれくらいあるとか、仏教の歴史にどれくらい精通しているとか、そのようなことは、まったく問題になりません。

 

南無阿弥陀仏の念仏に救われた時に、その人が持っていた知識が、その人が救われるために必要な知識量だったというだけのことです。

 

ましてや、宗教団体にどれだけ寄付をしたとか、宗教団体の活動に参加して、どれだけ熱心に奉仕をしたとか、そのようなことで、救われるかどうかが決まることなど絶対にありません。

 

どこにいても、何をしていても、南無阿弥陀仏の念仏に救われたのであれば、それが全てです。それ以上でも、それ以下でもありません。南無阿弥陀仏は、ただ、南無阿弥陀仏なのです。

 

とは言え、正信偈に書かれている漢文を読み、その内容を正しく聞いて、親鸞聖人の教えの通りに救われる人など、まずいないでしょう。ほとんどの人は、そこに書かれている言葉の意味さえ分からないはずです。

 

現代を生きている私達には、あまりにも馴染みのない漢文で書かれた正信偈。そこに書かれている840文字の言葉を通して、親鸞聖人は、私達に何を伝えようとしたのでしょうか。その真意に迫ってみたいと思います。

 

その事前準備として、最初に触れておきたいことがあります。

 

それは、南無阿弥陀仏という念仏は、そもそも、どんな意味なのかということです。

 

日本人であれば、南無阿弥陀仏という念仏を、一度くらいは聞いたことがあるでしょう。仏教の宗派によって、唱える念仏にも違いがあるということを知っている人もいるのではないでしょうか。

 

それでは、浄土真宗の念仏である南無阿弥陀仏とは、どんな意味なのでしょうか。

 

南無の語源は、ナマスという言葉だと言われています。ナマスとは「お任せします」という意味です。

 

ここでもう一度、正信偈の冒頭に出てくる十四文字を確認してみましょう。

 

【原文】

帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)

南無(なむ)不可思議光(ふかしぎこう)

正信偈12行目)

 

冒頭に出てくる「帰命」とは、「南無」と同じ意味を持つ言葉です。

 

その後に続く「無量寿如来」と「不可思議光(如来)」は、どちらも阿弥陀仏の別名です。

 

つまり、南無阿弥陀仏も、帰命無量寿如来も、南無不可思議光も、全て「そのまんま阿弥陀仏にお任せします」ということを表しているのです。

 

何をお任せするのかと言えば、私達の命そのものです。

 

阿弥陀仏は、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。

 

その約束を心から信じて、私達の命の行き先を、そのまんま阿弥陀仏にお任せする。


それが、南無阿弥陀仏であり、帰命無量寿如来であり、南無不可思議光なのです。

 

生きている私達にとって最も大切な命の行き先を、そのまんまお任せするには、心から信じていることが絶対条件です。

 

本当に大丈夫だろうか?

騙されているのではないだろうか?

 

そのように疑う心がある間は、恐ろしくて、とても命そのものをお任せすることなどできません。ですから、阿弥陀仏の約束を疑ったまま、ただ言葉の上でだけ「南無阿弥陀仏」と口にしてみたところで、何も変わらなければ、救われることもないのです。

 

全ての疑いが晴れ、そのまんま阿弥陀仏にお任せする状態になったことを、信心を得るとか、信心が定まるとか、信心を獲得(ぎゃくとく)すると言います。

 

南無阿弥陀仏の念仏に救われるためには、この信心を得ることが肝心です。逆に言えば、信心の他には何にも要らないし、どんな条件も付けない。

 

信心一つで救わる。

 

それが阿弥陀仏の救いであり、浄土真宗の教えなのです。

 

それでは、私達はどうしたら、その信心を得ることができるのでしょうか。

 

正信偈に聞いてみましょう。