全ての命は、過去・現在・未来の三つの連なりの中で、繋がり合って存在している。そして、その繋がりの中で起こる全てのことには、必ず原因と結果がある。お釈迦様は、そう教えました。

 

これを、三世因果の道理と言います。

 

しかし、結果というものは、単に原因があるだけは発生しません。

 

たとえば、ここに柿の種があったとします。

 

柿の種は、将来、沢山の果実を実らせるための原因です。しかし、柿の種をアスファルトの上に置いておくだけでは、果実が実るという結果は起きません。土があり、雨があり、太陽があって、初めて柿の種は、芽を出し、枝葉を伸ばし、果実を実らせることができるのです。

 

土や雨や太陽のように、原因にはたらいて結果を発生させる条件のことを、縁と言います。

 

この縁について、親鸞聖人と直弟子の(ゆい)(えん)との間で交わされた、こんなやり取りが残されています。

 

【意訳】

ある時、親鸞聖人が唯円に尋ねました。


「あなたは、私の言うことを信じて受け入れますか?」


その問いに、唯円は「もちろんです」と答えました。親鸞聖人は念を押して、さらに尋ねます。


「それでは、私が言うことに背いたりしませんか?」


唯円は「決して背きません」と答えました。すると親鸞聖人は、こう続けました。


「それなら今から、人を千人殺してきて下さい。そうすれば、極楽浄土へ救われる身となれるでしょう」


親鸞聖人の言葉に驚いた唯円は、こう答えます。


「いくら親鸞聖人が言われることであっても、私のような者には、人を殺すことなど、とてもできそうにありません」


「それでは、どうして私が言うことに背かないと答えたのですか?」


言葉に詰まる唯円に、親鸞聖人は、このように説いて聞かせます。


「これで分かったでしょう。この世界で起こる全てのことが、自分の思い通りになるのなら、極楽浄土へ救われるために人を千人殺すこともできたはずです。しかし、あなたは人を殺すことはできないと答えた。私にもあなたにも、人を殺す縁がないから、人を殺すという行為(結果)ができないのです。逆に、人を殺す縁さえあれば、百人でも、千人でも、平気で人を殺してしまう私達なのです。決して、私達の心が善良であるから、人を殺さない訳ではありません」

歎異抄(たんにしょう) 第十三条)

 

私達が今、それぞれの立場で、それぞれの悩みや苦しみを抱えて生きているということは、私達の命の繋がりのどこかに、そうなるための原因があり、その原因に縁がはたらいた結果なのです。

 

この世に縁無く生まれる人もいなければ、この世で縁無く出会う人もいません。


様々な因縁が複雑に絡み合うことによって、私達は今、こうして同じ時代を生きています。

 

縁が集まり人に生まれ、縁が散って命を終える。そのような縁の集まりが私達です。

 

それぞれの人生で起こる現実が、思い通りにならないことばかりなのは、この世界が縁の集まりで成り立っているからです。

 

たとえば、残虐な殺人を繰り返した犯人が逮捕されたとしましょう。その時、あなたは犯人のことを、どのように認識するでしょうか。

 

多くの人は、この犯人のことを「自分達とは違う特殊な人間」として区別するはずです。人間として、まともな感性があれば、あのような残虐な行為ができるはずがない。同じ人間だとは、とても思えない。そんな風に認識するのではないでしょうか。

 

しかし親鸞聖人は、縁さえ集まれば、どんな悪をも犯してしまうのが私達であると教えています。

 

残虐な殺人犯も、私達も何も変わらない。その犯人の元に、たまたま残虐な殺人を繰り返す縁が集まっただけのことであって、それは誰にでも起こりうる現実なのです。

 

そのような頼りない存在である私達が、阿弥陀仏の本願に救われるということは、どれほどに難しいことなのか。親鸞聖人は、このように教えています。

 

【原文】

()(ぜい)(ごう)(えん)多生(たしょう)にも()いがたく、真実(しんじつ)(じょう)(しん)億劫(おくこう)にも()がたし。たまたま(ぎょう)(しん)()(とお)宿縁(しゅくえん)(よろこ)べ。

(きょう)(ぎょう)信証(しんしょう) 総序)

 

【意訳】

三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返してきた私達が、人として生きている間に、真実の仏教を聞くということは大変難しいことである。ましてや、阿弥陀仏の本願に出会い、信心を得るということは、どれだけ生まれ変わり死に変わりを繰り返したとしても、とても叶うことではない。今の一生で、偶然にも信心を得たのであれば、遥か遠い昔から積み重ねてきた原因に、尊い縁がはたらいたことを、ただ喜びなさい。

 

三世因果の道理とは、この世界の真理です。

 

その真理を、何一つ欠けることなく承知できるのは仏のみです。とても、人の及ぶところではありません。

 

もしも、三世因果の道理を知り尽くしている私達であれば、未来に起こる全ての結果が、私達とって都合の良いものになるよう、原因や縁をコントロールすることもできるかもしれません。

 

けれど私達に、そんな能力はありません。

 

大海原を漂うクラゲのように、縁という巨大な波に流されて、思いもよらない人生を生きているのが私達です。

 

縁あって人に生まれても、その縁がいつ散ってしまうのか、誰にも分かりません。そうして人生を終えてしまえば、次はいつ、人に生まれることができるのか。仏の知恵を持たない私達には、知る術がありません。

 

阿弥陀仏の本願に出会い、信心を得られる可能性があるのは、人として生きている短い間だけです。

 

そのような人生の中で、たまたま信心を得たのであれば、有り得ないことが我が身に起きているのだと知り、そのような縁が我が身に宿っていたことを、ただ喜びなさいと、親鸞聖人は教えているのです。