文化庁の資料によれば、日本全国にあるお寺の数は77,392寺にもなるそうです。ちなみに神社の数は、それを上回る81,336社だそうです。
コンビニ最大手・セブンイレブンの国内店舗数が約2万店ですから、いかにお寺の数が多いのかが分かると思います。
それほど膨大な数のお寺があるのなら、日本という国は、相当に熱心な仏教国であってもおかしくないはずです。
しかし、現実はどうでしょうか。
「あなたは、どこの宗派ですか?」
そう質問をして、すぐに「私は〇〇宗です」と答えられる人が、どのくらいいるでしょうか。また、自分の宗派が答えられたとして、毎日、仏壇に向かって手を合わせることが習慣となっている人が、どのくらいいるでしょうか。
ほとんどの人が無宗教であり、宗教と聞けば、怖いもの、危ないもの、関わってはいけないものだと思う。それが、現代を生きている私達の一般的な価値観ではないでしょうか。
生活に便利なもの・必要なものは広まり、そうでないものは廃れていく。それは、自然の摂理です。スマホが進化する一方で、自宅にテレビのない若者が増えているのも、時代の流れというものなのでしょう。
それなら、宗教離れが進んでしまった現代の日本において、仏教とは過去の産物であり、私達の生活には不要なものなのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
どれだけ経済や科学や医学が進歩しようと、私達が老い、病み、死んでいかねばならないという現実は何も変わりません。
経済や科学や医学では解決することのできない大きな困難に直面した時、仏教に救いを求める人は、決して少なくないでしょう。
また、真実の仏教を伝えるため、熱心な活動をされている僧侶がいることも事実です。
生きるとはどういうことか。死ぬとはどういうことか。いつか必ず死んでいかねばならない命を、どう生きるべきか。そのような命の根幹にある問題に答えてくれる仏教が、私達の生活に不要なものであるはずがありません。
私達が普段、不要だと感じているのは、葬儀やお墓の販売・管理が中心となってしまった、ビジネスとしての仏教ではないでしょうか。
ビジネスとして葬儀やお墓の販売・管理をするだけなら、一般企業に参入して貰い、資本主義というルールの下、大いに競争して貰えばいいのです。
その方が、より安価で高品質なサービスを受けられるようになるでしょう。わざわざ、お寺にお願いし、高額な代金を支払い、戒名や法名をつけて貰う必要などありません。
お寺とは、本来、どうあるべきか。この問いに対して、浄土真宗の中興の祖・蓮如上人の答えは明確です。
【原文】
一宗の繁昌と申すは、人の多く集まり、威の大なる事にてはなく候。一人なりとも人の信を取るが、一宗の繁昌に候。
(蓮如上人御一代記聞書)
【意訳】
浄土真宗の繁盛というのは、人が多く集まり、組織としての威勢が良いことではありません。一人でも阿弥陀仏に救われ、信心を得る人が現れることが、本当の意味で、浄土真宗が繁盛しているということなのです。
蓮如上人は、お寺の本来の役割は、あくまでも法(お釈迦様の教え)を説くことであり、その法を聞くことによって信心を得る人が、一人でも現れることが、浄土真宗が繁盛しているということだと明言しています。
そのような繁盛をしていれば、たとえどんなにお寺が貧しくても、たとえどんなに人が集まらなくても、法は栄えていると言っていいのでしょう。
反対に、信心を得る人が現れることもないまま、お金ばかりが集まり、建物が立派になり、組織が大きくなってみたところで、それは法が衰退していると言うことなのです。
ほんの一時、人やお金が集まり栄えてみたところで、法が衰退してしまえば、やがて組織自体も滅びる運命を免れないでしょう。
法を聞くことで、実際に信心を得て、救われた人がいるのかどうか。それだけが大切な問題なのだから、目先の人やお金に惑わされて、お寺のあるべき姿を見失ってはいけない。そう、蓮如上人は忠告しているのです。
人の死に関わる葬儀というものは、煩悩具足の凡夫である私達が、老い、病み、死んでいかねばならないという現実と真剣に向き合うことができる数少ない機会です。
亡くなった方が近しい人であればある程、死という現実が、我が事として切実に感じられるはずです。
愛する人の死という困難が、尊い仏縁(仏の慈悲に出会う縁)になるかどうかは、葬儀に立ち会う僧侶の行動次第と言ってもいいでしょう。
葬儀という大切な場で、僧侶が法を説くこともなく、ビジネスとしての仏教を売り歩いていれば、宗教離れは進む一方です。
大きな経済発展をし、物質的な豊かさを手に入れた日本という国で、年間2万人以上の人が自ら命を絶っています。
物質的な豊かさだけを追い求めても、人は幸せに生きられない。そう気づきながらも、明確な人生の意義を見出せずに、多くの人が迷い苦しんでいます。
そのような人々が仏の慈悲に出会い、心の問題を解決して、自分の足で、自分の人生を歩んでいくためには、法を説いてくれる伴走者が必要です。それこそが、お寺が担うべき本来の役割ではないでしょうか。
本当の意味で、お寺が繁盛していくことが求められているのは、まさに今なのです。