親鸞聖人は、聖徳太子のことを大変尊敬していました。天台宗の僧侶として修行をしていた頃に、聖徳太子ゆかりのお寺を、幾度も訪ねています。

 

聖徳太子と言えば、十七条の憲法が有名です。

 

聖徳太子が実在の人物なのか、聖徳太子が行ったとされる数々の功績が事実なのか、そのような難しい議論は歴史学者にお任せするとして、ここでは十七条の憲法の内容に触れていきたいと思います。

 

聖徳太子は、十七条の憲法の第一条で「()()って(とうと)しとす」と定め、続く第二条で「(あつ)三宝(さんぽう)(うやま)へ」と定めています。

 

三宝とは、仏・法・僧の三つを指す言葉です。

 

聖徳太子は、お釈迦様(仏)と、お釈迦様の説いた教え(法)と、その教えを伝える修行者(僧)こそ国の宝であり、最も尊いものであると定めたのです。

 

この文言からも、十七条の憲法は、仏教の影響を強く受けていることが分かります。その中で注目したいのは、第十条に書かれている一文です。

 

【書き下し文】

われ(かなら)ずしも(せい)にあらず。かれ(かなら)ずしも(ぐう)にあらず。(とも)に、これ凡夫(ぼんぷ)のみ。

 

【意訳】

私が必ず正しい訳でも、相手が必ず間違っている訳でもない。仏の目から見れば、私達は等しく愚かで憐れな存在なのです。

 

煩悩具足の凡夫である私達は、いつでも「正義は我にあり」と自惚れています。だからこそ、自分の考えに合わない人・従わない人を悪者にして、争いばかりを繰り返すのです。

 

しかし、私には私の正義があるように、相手にも相手の正義があります。それぞれの人が、それぞれの立場で、それぞれの正義を主張していれば、争いが起こるのは当然です。

 

その上、全ての人は煩悩具足の凡夫です。

 

お釈迦様のように、真理をさとって、人々を導くことができる人など、一人もいないのです。

 

そのような煩悩具足の凡夫煩悩具足の凡夫同士で、自分にとって都合の良い正義を、お互いに振り回していれば、争いはより激しく、悲惨なものになります。

 

聖徳太子は仏教を通して、そのような人の本質を学んでいたのではないでしょうか。だからこそ、十七条の憲法の第一条に「和を以って貴しとす」と定め、いたずらに争ってはならないと警告しているのです。

 

しかし「和を以って貴しとす」という心がけが大切だと、理屈の上で分かっているということと、それを実践できるということでは、天と地ほどの差があります。

 

「お前の意見は間違っている」

 

そう、面と向かって指摘をされたら、誰でもカッと頭に血が上り、相手を言い負かしてやろうと、必死になって反論するのではないでしょうか。

 

そんな怒りの真っ最中に、「和を以って貴しとす」が大事だから、相手の意見に耳を傾けて穏やかに対話しようと思える人が、どのくらいいるでしょうか。

 

自分こそが正義のヒーロー。自分を攻撃する人は、全て悪者。自分だけは特別。我が身が可愛くて仕方ない。それが、煩悩具足の凡夫である私達の有り様です。

 

どうしても人には厳しい評価をつけ、自分には優しい評価をつけてしまう。自己中心的にしか生きることができない。それが、煩悩具足の凡夫というものなのでしょう。

 

しかし、そのような煩悩具足の凡夫であっても、自分の行動を顧みて、反省することはできます。

 

嵐のような怒りが過ぎ去った後で、大きく深呼吸をして、聖徳太子の言葉を思い出してみて下さい。

 

【意訳】

私が必ず正しい訳でも、相手が必ず間違っている訳でもない。仏の目から見れば、私達は等しく愚かで憐れな存在なのです。

 

人は、みんな鏡です。

 

とんでもない愚かな発言をする悪者は、そのまんま、自分こそが正義のヒーローだと自惚れている愚かな私の姿です。

 

この世界の真理をさとった仏の目から見れば、私達はみな、等しく愚かで憐れな存在です。何が本当に正しいことなのか。全ての善悪を知り尽くしている人など、一人もいないのです。

 

そうであれば、同じ時代を生きる同じ命として、たとえ完璧でなくても、相互理解を深め、争いは避け、人に優しく、自分にも優しく生きていた方が、人生は豊かなものになると思うのです。