お釈迦様は、仏教を聞くことの難しさを、このような言葉で教えました。

 

【原文】

仏法(ぶっぽう)()(がた)し、(いま)すでに()

 

【意訳】

仏教を聞くことは難しい。しかし、私は今、仏教を聞くことを得た。

 

あらゆる技術が進歩した現代では、スマホ一つで世界中の情報と繋がることができます。

 

『仏教』というキーワードで検索をすれば、一生かけても見切れない程の情報が、目の前に表示されることでしょう。

 

私達の生活環境は、お釈迦様の生きていた時代とは異なり、格段に便利になっています。

 

それならば、現代を生きている私達は、簡単に仏教を聞くことができるのでしょうか。

 

そうではありません。

 

お釈迦様の時代も、現代も、仏教を聞くことの難しさは、何も変わっていないのです。どれだけ技術が進歩しても、仏教を正しく聞けるのは、よほど宿善に恵まれた、ごく限られた人だけだと言っていいでしょう。

 

それは、なぜでしょうか。

 

仏教に限らず、何かしらの情報を正しく聞くためには、二つの条件が同時に揃う必要があります。そうでなければ、私達は、決して人の話を正しく聞くことができないのです。

 

一つ目の条件は、正しい情報(もしくは正しい情報を教えてくれる人)に出会うことです。

 

どんなに魅力的な内容であっても、その情報が間違っていたのでは、正しく聞けるはずがありません。

 

たとえば『投資』というキーワードで検索をして、スマホに表示される情報の中で、どれくらいのサイトが、正しい情報を伝えているでしょうか。

 

そして、それらのサイトに書かれている情報が正しいものかどうかを、投資に対して知識のない人が、適切に判断することができるでしょうか。

 

現代を生きている私達は、ネットを中心とした巨大な情報の渦から、正しいものを自分の力で選び取らなければ、正しい情報にたどり着くことができないのです。

 

それは、容易なことではないでしょう。

 

親鸞聖人は、正しい教えに出会うことの難しさを、こう書き残しています。

 

【原文】

(ぜん)知識(ちしき)にあうことも

おしうることもまたかたし

よくきくこともかたければ

(しん)ずることもなおかたし

浄土(じょうど)和讃(わさん)

 

【意訳】

善知識に会うことも、それを人に教えることも難しい。ましてや、善知識の教えを正しく聞いて、信じることができるというのは、最も難しいことだ。

 

善知識とは、真実の仏教、正しい教えを説いてくれる人のことです。

 

早くに両親を亡くした親鸞聖人は、わずか九歳で出家をし、天台宗の僧侶となりました。それから二十年間、比叡山で厳しい修行をし、それでも真実の仏教に出会うことができずに、泣く泣く山を下りました。

 

そして京都の町で、浄土宗の開祖である法然上人と出会い、ついに真実の仏教を聞くことができたのです。親鸞聖人にとっては、法然上人こそが善知識そのものだったのでしょう。

 

善知識に出会うということは、お釈迦様の時代でも、親鸞聖人の時代でも、ネット社会になった現代でも、決して簡単なことではないのです。

 

二つ目の条件は、正しい情報を、正しく聞く姿勢が整うことです。

 

親鸞聖人は、善知識に会うことも難しいけれど、善知識の教えを正しく聞いて、信じることができるというのは、最も難しいことだと書き残しています。

 

なぜでしょうか。

 

私達は、人の話を正しく聞いていると思い込んでいるだけで、実のところ、自分の聞きたいことを、自分の聞きたいように聞いています。

 

たとえば、同じセミナーに参加した人に「講義の内容はどうでしたか?」と質問をしたとしましょう。

 

ある人は「すごくためになった。いい講義だった」と誉め、ある人は「知ったかぶりをして、くだらない内容だった」と文句を言い、またある人は「何を言っているのか、さっぱり分からなかった」とあくびをするのです。

 

同じ講義を聞いていたにも関わらず、そのような差が生じるのは、なぜでしょうか。

 

それは私達の聞く姿勢というものが、自分の置かれている立場や利害関係、持っている知識や経験の量、その時の気分によって、目まぐるしく変化するからです。

 

私達の聞く姿勢は、一定ではありません。

 

私達は、常に揺れ動く心というフィルターを通して、この世界のあらゆることを見聞きしています。

 

フィルターを通して見聞きした全ては、その時の自分にとって都合の良いように勝手に変換されてから、私達の元に届きます。

 

この世界のあらゆることを、正しく、客観的に、ありのままに見聞きできる人など、一人もいません。

 

しかし私達は、自分が偏った受け取り方をしているとは夢にも思わず、自分こそは正しく世界を見ている、自分こそは正しく話を聞いていると信じて疑いません。

 

自分が見ている世界こそ全て、いつだって「正義は我にあり」なのです。

 

それぞれ人が、それぞれの都合に合わせて、好き勝手に見聞きしている。その上、自分こそは正しく世界を見ている、自分こそは正しく話を聞いていると、誰もが自惚れているから、人の世界には常に争いが絶えないのでしょう。

 

自分の都合でしか、話を聞くことができない。それが、私達の聞く姿勢です。

 

真実の仏教に出会うためには、善知識から正しい教えを聞く必要があります。正しい教えを聞くのは、自分の聞く姿勢を正すためです。仏教とは、自分の聞く姿勢を正すためのものなのです。

 

お釈迦様が人としての命を終えられる間際、弟子の一人が、こう尋ねました。

 

「お釈迦様が生涯をかけて説かれた教えを、一言で表すとすれば、どのようなことでしょうか?」

 

その問いに対して、お釈迦様は、こう答えます。

 

仏教(ぶっきょう)は、(ほう)(きょう)なり。

 

仏教は、自分を映す鏡です。

 

仏教を、真剣に聞き抜いていけば、必ず、自分の都合でしか教えを聞くことができない、愚かな自己の姿を目にします。

 

それは法の鏡が映し出す、真実の自己の姿です。

 

私達は、仏教という法の鏡を通さなければ、決して真実の自己の姿を知ることができません。

 

真実の自己の姿を目の当たりにすることで、自分こそは正しく世界を見ている、自分こそは正しく話を聞いていると自惚れていた愚かな自分に気づくのです。

 

法の鏡によって自分の愚かさを知らされて、初めて、正しく聞く姿勢は整います。

 

そして、正しい教えを正しく聞くことができたその時に、仏の説いた救いとは何か、人生の目的とは何か、それら全ての答えが、はっきりと分かります。

 

そこまで聞き抜いてこその仏教です。

 

だからこそ、お釈迦様は「仏教を聞くことは難しい」と教えた上で、このように続けているのです。

 

【原文】

仏法(ぶっぽう)()(がた)し、(いま)すでに()

この()今生(こんじょう)において()せずんば

(さら)にいずれの(しょう)()かってかこの()()せん

 

【意訳】

仏教を聞くことは難しい。しかし、私は今、仏教を聞くことを得た。この一生で救われることがなければ、一体、いつの世で救われる我が身だというのか。救われるチャンスは、今、この時をおいて他にはない。

 

聞き難い仏教を聞く機会を得たのなら、真剣に聞き抜いて、何としても、この一生で救われなさい。お釈迦様は、そう教えているのです。