三世因果の道理の中で、生まれ変わり死に変わりを繰り返し、迷いに迷って、苦しみに苦しんで、途方もない善因を積み重ねた結果、ようやく人に生まれることを得た。それが、私達です。


この積み重ねてきた善因のことを、宿しゅくぜんと呼びます。

 

浄土真宗を日本最大の宗派にまで押し上げた中興の祖、蓮如上人は、御文章(教えを書いた手紙)に、こう記しています。

 

【原文】

無宿(むしゅく)(ぜん)()(いた)りては(ちから)(およ)ばす

 

【意訳】

宿善の無い人は、救われようがない

 

人に生まれることも、仏教を聞く機会が得られるのも、全ては宿善があってこそです。

 

私達は、人に生まれ、教育を受け、スマホ一つで様々な情報が手に入ることを、当たり前だと思っています。そして、その情報の中に仏教が混ざっていたとしても、大した驚きも感動もなく素通りをしてしまうのです。

 

生きていて当然、教育を受けられて当然、情報が手に入って当然。それが、現代を生きている私達の価値観ではないでしょうか。

 

人に生まれ、仏教を聞く機会を得た。そのような宿善が私にもあった。何と有難いことだろう。そう心から感謝して生きている人が、一体、どれくらいいるでしょうか。

 

私達は、人として生きている間に起こることが全てだと思って、人として生きている間に、どれだけ成功するか、どれだけ楽しい思いをするか、そればかりに必死になっています。

 

自分の記憶にない永遠の過去に積み重ねてきた宿善にも、自分が認識できない永遠の未来に繋がっていく宿善にも、まるで興味がありません。

 

人として生きている間に起こることが全てだと思って、目先の些細な成果を競い合い、勝ったとか負けたとか、得したとか損したとか、大騒ぎをしているのです。

 

人に生まれることを得てもなお、仏教を聞く善因を持たない無宿善の人だけは、どれだけ教えを説いたところで、どうにも救われようがない。その無念を、蓮如上人は「力及ばず」と手紙に書き記しているのです。

 

それでは、私達は一体何をすれば、その宿善を積むことができるのでしょうか。

 

三世因果の道理と同様に、何が宿善を積むことになるのか、何一つ欠けることなく承知できるのは、仏のみです。とても人の及ぶところではありません。

 

もしも、三世因果の道理を知り尽くし、宿善の積み方を何一つ欠けることなく承知できるのなら、未来に起こる全ての結果が私達にとって善いものとなるように、全ての原因をコントロールすることもできるかもしれません。

 

しかし、そんなことのできる私達ではないのです。それは、仏のみが承知できる途方もない知恵です。とても人の手の届くようなものではありません。

 

けれど、人に生まれることを得た私達は、今の一生で仏教を聞くことはできます。

 

仏教は聞法もんぽうに極まる、と言います。

 

法とは、仏(お釈迦様)の説いた教えのことです。三世因果の道理宿善も、知り尽くした仏の説いた教えだから、仏教と言うのです。その仏教を聞くこと以外に、私達にできることがあるでしょうか。

 

人に生まれ、仏教を聞く機会を得た。それは、奇跡と呼べる必然です。永遠の過去から積み重ねてきた宿善によって、ようやく得た成果です。

 

そうであるならば、人生の目的を知り、それを達成して、満足のいく幸せな一生を過ごせる身になれるまで、真剣に聞法を続ける生き方をすべきではないでしょうか。