人は自分からは離れられない。
しかし、逆に、人は自分と本当に一緒にいることもできない。
自分と一緒にいると思いながら、実のところ自分と離れて生きていることが多い。
その自分と離れている距離は普通の生活の中では、なかなか見えてこない。だから、私たちは、離れていることにすら気づかないで生きている。それは長いあいだ働くことのなかった自分との距離に、慣れ親しんでしまっているかのようである。
(中略)
自分から離れていた自分は、自分よりもいつも先にばかり進んでいた自分であったり、自分以外のものを自分だと思い込んでいた自分であったり、自分を自分以外のもので支えざるを得なかった自分であったり、自分を他人に合わせることばかり考えていた自分であったり、様々である。
そんなふうに自分から離れて生きている私たちは、何か現実の自分とはずれた古い解釈の中で自分と世界を理解しているのである。そして、ずれてしまった解釈のせいで、なかなか自分に近づけないでいる。
もし、毎日の生活の中で、自分との距離を感じることができたならば、そのときは、古い解釈を検討するいいチャンスである。
そんなときは、一度自分から離れて、自分らしくなかった自分にちょっぴり絶望して、そして、心の純粋な動きに耳を澄ませばよい。きっと、新しい解釈が見えてくるはずである。
(「人は変われる」高橋和巳著)
前回に続き(間が開きましたが)、精神科医の髙橋和巳氏の著書からの引用です。
自分自身と完全に一致すると言うことは、人が言語を使うという特性からあり得ない、あるいは希なことです。ある不一致が常態だといってもいいのですが、それでも、その差が大きく成りすぎると、不安になったり、不全感がでたり、「どうして生きてるんだろう」と考え込んでしまうことになります。
また、逆に不一致になれてしまうと、不一致に気づかないということになる。自分であろうとする自然な欲求が、不自然さを当然のこととしてしまい、いつの間にか窮屈な生き方になったり、本来の人間的な心を取りこぼしたりする。
交流分析では、幼少期に信じ込んでしまった自分に対する「禁止令」が普通の自分と感じることがあります。禁止令をざっと、あげると以下のようになります。
1.存在するな
2.感覚を持つな
3感情を持つな
4.考えるな
5近づくな
6.あなたであるな
7.子供であるな
8.成長するな
これらを抱えながら、生活をすることは大変です。そして、どうしても自分との距離が出てきてしまう。これらは無意識に潜り込んでいるので、「普通の自分」と思い込みますが、どうしても生きにくさが生じます。そこに、新たな解釈の余地が生まれます。
また、ちょっと話を変えますが、初めて職場に入ったとき、どのように感じましたか?
ひょっとしたら「これで本当にいいのだろうか?」と感じたことはないですか。それは日を追う毎に、理解して納得できるものもあるかと思います。しかし、「慣れ」によって考えないようにしている部分もあるのではないでしょうか。
これも、いつの間にか不一致を「普通のこと」と思い込む事例と言えそうですね。交流分析的には「順応」という言葉を使います。会社なので、自分の考えと一致することはまずあり得ません。けれども、不一致を忘れてしまうことは、自分をいくらか失ってしまうことです。
人は不一致にも耐えることができます。それそのものを現在の「自分と認める」ことができると思うのです。
完全に一致することもなければ、不一致を放り捨てることもできない。
そんな宙ぶらりんで面倒で難しい考えはいらない、と言われるかも知れませんね。
けれども、それが「自分に成ろう」とする、成長する動力源ともいえます。そして、それを認めることが自然のように私には思えるのです。
だから、不一致が見えたときに、感じたときに、考えることや態度を変更することを恐れることなく、挑戦していってもいいと思うのです。
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