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文治二年(1186年)4月8日静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露しました。
静御膳=源義経の奥さんとゆうイメージがあるけど、実際には、正室は他にいて
静御膳は妾さん。
今でいう愛人、第2夫人的な立場でした。現代だったら泥沼な関係を想像しますが、当時の結婚観では、それは、当たり前のことでした。静御前の生年ははっきりしません。
母の磯禅師(いそのぜんじ)という人が、京都で公家を相手に白拍子を、斡旋していたそうで、静も母と同様に白拍子になり、京の都で舞を舞っていました。
※白拍子(しらびょうし)…平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を歌い舞う遊女。
生来から際立った美貌の静は、源氏の若大将・源義経の目にとまり、その愛妾となります。出入り先が公家や皇族の屋敷だったため、自然と教養が身についていき、品の良い人が多かったそうです。
磯禅師も自身が白拍子として名を上げていたからこそ、斡旋という難しい役目ができたのでしょう。
義経の正室は郷御前(さとごぜん)という人で、こちらは関東の豪族の娘だったそうです。静御前よりは身分が高い人。
やがて平家との戦いが終わり、義経は兄・頼朝と完全に決別して京を追われます。その際、家来達と共に郷御前と静御前もついていくことになりました。しかし、静御前は、吉野山で義経から
「お前は京に戻れ」
と言われ、別れることになります。郷御前はそのままついていくことになりますが、ここで話が大きく分かれるので、まずは静御前のことをお話しましょう。
義経は静御前に対し、当面の足しになるよう、お金と護衛兼世話役の男達をつけてくれました。
が、彼らが、静御前からお金を奪って逃げるということが起きます。
ひ…ひどい…
そんなわけで静御前は初冬の寒い山の中を一人でさまよい、運よく頼朝の命で義経一行を探していた吉野山の僧兵に保護されました。多少の詰問はされたようですが、僧兵達は静御前を憐れみ同情し、鎌倉へ差し出す前にいろいろと便宜を図ってくれたそうです。
そして半月後、まず京都にいた北条時政(政子の父親)に預けられ、そこから鎌倉へいくことになります。いくらか京都の時政と鎌倉の頼朝との間で手紙の往来があり、静御前がその母・磯禅師と共に鎌倉へ着いたのは、翌年3月始めのことでした。
このとき静御前は義経の子供を身ごもっていた!
らしいので、長旅は相当きつかったでしょうね。鎌倉に着いたら着いたで一週間もしないうちに取調べが始まったようなので、体力的にも精神的にも辛かったことは想像に難くありません。
だというのに、翌4月には「舞を披露せよ」と言われているのですから、ここで当てつけに自害していてもおかしくないほどの扱いです。静御前は再三体調不良などを理由に断っていたのですが、北条政子が
「京一番の名手の舞を見られないのは惜しい。頼朝様ではなく八幡宮に捧げるために舞ってくれませんか」
とやんわりゴネたため、断りきれなくなりました。
<吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき>
生き別れた義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒り刀に手をかけます。
その頼朝を妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないものです」といさめました。政子の言葉に頼朝は怒りを解き、静は命を救われます。
頼朝は流罪の身から出兵して基盤が不安定でしたし、その帰りを待っていた期間が長かった政子としてみれば、他人事には思えなかったのでしょう。
糟糠の妻の説得に頼朝も怒りを収め、静御前に褒美をくれたとか。
静御前は同年閏7月に鎌倉付近で男の子を産みましたが、これは頼朝の命で由比ガ浜に捨てられてしまいます。
ひ…酷すぎる…
当然命は助かりません。
頼朝自身がかつて「幼いから助けてやって欲しい」と言われて助けられた身ですから、もし情けをかければいずれ牙を剥かれると思ったのでしょう。
静御前の消息がわかるのは、出産から約二ヵ月後、母と共に京都へ帰ったところまでです。その後はどこぞで入水したとか、もう一度義経を追おうとして客死したなどさまざまな説があり、定説と呼べるものはないようです。
共通しているのは「長生きはしていない」ということでしょうか。
静御前の其の後には所説ありますが、わたしは
下記の記事を読んだときに
すごくピンときたのでシェアします。
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傷心の静は、みちのくの平泉に落ちのびた義経を追って平泉を目指しますが、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道は北上できません。そのため、静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選びました。
道中には、世情名高い八十里越えの難所があります。
ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになりました。
そして、建久元(1190)年4月26日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去ります。
従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになりました。この庵が、後の高徳寺であるとされています。
明治の末、静の話を聞き知った小向村のセイという娘が静を哀れみ、自らが機を織って稼いだ金を細々とたくわえ続け、静の供養のための石塔を建立しました。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔です。
記事元:源義経の愛妾「静御前の墓」
これが真実に近いと感じます。わたしの過去世は、絶望より自死が多かったので、自死である可能性もあるけど…。
ちなみに…正室・郷御前のその後も悲惨です。
彼女は義経にずっと従い奥州までたどり着いたとされています。
逃亡劇が始まった直後の文治二年(1186年)に娘を産んでいたそうなので、産後の辛い時期に長旅をしていた可能性が高いということになりますね。
しかし、義経が頼みにしていた奥州藤原氏に裏切られて襲撃されると、郷御前も幼い娘も無事には済みませんでした。
二人とも義経が自ら手にかけたとされています…。
…哀しすぎる…
もう、最悪なシナリオすぎて
怒りと哀しみしか感じないし
とてつもないやるせなさを感じます…。
静御前だけじゃないですね…
沢山の同じような女性が、歴史の中にはたっくさんいたはずだし、イマだって沢山の女性が、傷ついて哀しんで 、その哀しみや絶望を、子宮に抱えたまま生きている…
こりゃあ、静御前…早急に祈らないといけない…。
この記事を電車の中で書き、心からそう思い
麻布十番でタクシーで降りた瞬間…
空がキラリと光ったんです
ン?と空を見上げると…
鳳凰のような鳥が現れ
次に龍王のような雲が現れ…その中に…
どんどん虹が出てきた~~~
ミラクルレインボー
静御前…嬉しかったんだろうなぁ…
たっくさんの忘れ去られた女性たちの哀しみ&怒り&絶望…それは、子宮を通じて地球テラと繋がってるんだもんなぁ。
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静御前…すごいなぁ。
参加される方は下記が宣言です。
この日は、実は、他にも