この映画の主人公で、かくし子として産まれたステットは歌の才能があった。父には別の妻子がもういたので、ステットの母が交通事故で亡くなると、彼は、寄宿制の音楽学校に入ることになった。ステットのことを知られたくなかったからだ。


ステットはその学校で、歌の才能はあるが、音楽の基そができていないことを馬鹿にされたいらだちから、問題行動を起こす。そのたびに、国立少年合唱団の指揮者で、その学校にも勤めているカーヴェル先生にしかられている。


しかしその後、国立少年合唱団の校内オーディションを受け、ツアー隊に入る。そして、合唱の主役であるソリストのデヴォンがかぜをひいた時に、ステットがソリストの代役をする。

デヴォンはそれが気に入らなかったために、ステットの楽ふをぬすんだり、亡くなった母のたい捕写真をばらまいたりした。そのため、ステットはデヴォンとなぐり合いのけんかをしてしまった。


カーヴェル先生は、ステットを退学にするならばデヴォンも退学にさせ、また二人の競争心をあおった自分も指揮者をやめると言った。しかし、合唱団としてとても大切な公演をひかえていたために、退学をさせるわけにはいかないということになった。

そして公演は成功し、最後には父の家族といっしょにくらすことになる。


この話に出てくるカーヴェル先生は、デヴォンよりもステットのことを大切にしているのだと僕は思う。なぜそう思ったかというと、カーヴェル先生は昔ピアノを勉強していたが、才能がないと言われ、その時の先生を「一発なぐって」退学した、と話していたシーンがあったからだ。このシーンから、昔のカーヴェル先生は才能のある・ないという大きな違い以外のことは、ステットと似た部分があったのではないかと考えられる。


そして、カーヴェル先生は

「この学校で教えるのは、キャリアではなく、生き方だ。」

と言っている。また他の先生も、ステットの

「いつか消えてしまう(ボーイソプラノの)声なのに、どうしてこれだけきびしい練習をするの」

という質問に、

「それは、強く、努力して生きることができるようになるためだ。」

と返している。


この「強く生きる」という考え方が、この映画の一番言いたいことであり、僕がこの映画が好きな理由だと思う。今、僕が勉強することは、ただ知識をつけるだけでなく、「努力する」生き方を身につけるためのものなのだろう。

僕も、この映画のステット達の年に近づいてきて、改めてそう感じた。