正直、あの頃から大きく変わったと思えるようなことは、外見的にも行動的にも精神的にも皆無といっていいから、あまり実感は湧かない。15年という時間の隔たりは疑いようのない事実なのだが、同時に昨日のことのように、というお隣さん的感覚も、やはり純然たる事実として32才になる俺にまだ残っているのだ。
アイルランドという国はとにかくのんびりした国だった。住んでいる人達が等しく優しくて、子供は公園ではしゃぎ大人はパブで酒を飲むという、双方の正しい姿を毎日見せてくれた。
そんなところに住んでいたからだろうか、俺の級友たちも皆優しかった。何らかの理由で日本の高校に進学できない、でも親はカネ持ってんだもんね! そーだもんね! カネがあれば何とかなるんだもんね! よーし海外逃亡だもんね! という、だもんね的脱落者の吹き溜まり。それが俺の高校の真実の姿だ。
こういう場合、主な理由は3つ。頭が悪すぎる学力的バカ、ケンカしすぎる乱暴的バカ、そして「海外かっこいい!」「これからはグローバルだ!」みたいな単純かつ幼稚な海外への憧れが高じてやってきた精神的純粋バカ。級友たちは必ずいずれかに該当していた。俺は、言わずもがなだと思うが、三番目のバカであった。
とはいえ、全員がバカであるという環境は、少なくとも俺にとっては悪くなかった。学力バカと知力バカは似て非なるもので生活する上で不便なものではないし、乱暴バカは俺にさえ無害ならそれでよし。悪影響は何もなかった。
何より彼らは皆、バカではあるがいい奴らだった。また、アイルランドに行くことを人生の一大分岐点とまで捉え今では考えられないくらい逡巡したものだが、寮生活やホームステイなどでの現地人との交流は、結果的にとても面白いものだった。
とはいえ、それなりの違和感を持つことは多々、あった。最初の頃、本当に使える英語、というある種の特殊能力を持たない俺からすると、仲のいい友人たちは超人のように見えた。文法的に正しい言葉で、日本にいる時は発音がキレイと言われた俺の英語はまったく理解されず、どう聞いてもヘンテコな文法を駆使する級友たちの英語は理解されたのだ。それは今思い出しても非常に不思議な現象だった。
その事は夏休みなどの長期休暇明けにも感じた。帰国前は普通に通じていたのに、2週間くらい日本で生活をしてしまうとコツというものを失うらしく、買い物にさえ不便を感じた。もっとも、この現象はごく短期的で、2~3日経つとコツを取り戻すのか勝手に解消されるのだが。
16~18才という多感な時期だから当然恋愛的なこともあったわけだが、そこは寮生活といこともあり皆が奥手というか及び腰だった気がする。とはいえ、先輩や後輩の中には夜ごと抜け出しまぐわっていた勇敢な人が必ずいたから、俺の学年が殊更臆病だったのかもしれない。
そういえば、俺が転校した直後は男子と女子が、ごくごく一部を除いて全く会話をしないという不可思議な状態だった。寝食を共にする高校生らしくそれは恋愛がらみのイザコザゆえと後に判明したのだが、その辺も奥手っぷりに影響したのだろう。
当時、俺はTさんが好きだった。俺があの学校で最初に話した女性。そう記憶している。ベリーショートに大きな瞳が印象的な、とても気のいい女性だった。
高校2年の冬休みのこと。たまたまアイルランドに戻る日にちが同じだった2人は、一緒の飛行機に乗った。そして、経由地であるロンドンのヒースローというとても大きな空港でアクシデントに見舞われた。確かエンジントラブルだったと思う。最終的に4時間以上待たされたのだが、当然そうと知らない2人はトラブルが解消された時に迅速に行動できるようにと、そそくさとトランジット手続きを済ませデパーチャーズゲートをくぐってしまった。
しかし、前述の通りトラブルはなかなか解消されず、置物のような飛行機をただ眺めるだけ。そんな時間を持て余した2人は、小さなコーヒーカウンタしかない搭乗口前まで来たことをここで初めて後悔した。ゲートさえくぐらなければ免税店もゲームコーナーも本屋もあったはずだし、マクドナルドやバーガーキングでご飯を食べることもできたのだ。
数時間が経過しても一向に状況は改善しそうになかった。そしてTさんはお腹が減ったと、コーヒーカウンタの小さなテーブルでつぶらな瞳に切ない蒼色を纏わせていた(お、ちょっとブンガク的だ)。
しかし、俺たちは当時高校生だし、旅行で来ているのではないからお金をほとんどもっていなかった。アイルランドに着けばBank of Irelandという銀行でお金を下ろせるのだから当然だ。彼女はほぼ文無し、俺も財布に福沢くんがたった1人、心もとなく隠れているだけだった。
とりあえず俺はその一万円を、不当な手数料を取られてしまう空港内の両替所でイギリスポンドにしてもらい、彼女にコーヒーとサンドイッチを買ってあげた。俺も少し空腹を感じていたが、この後に何が起こるか分からないからできるだけ節約しようと考え、コーヒーだけ注文した。
漸く少し満足した彼女は、しばらくして少し眠った。俺も疲れていたが、手荷物の盗難を恐れたと同時に、 寝顔を見ていたいという邪まな考えも浮かんだので、彼女の隣で静かに時間が過ぎるのを待っていた。
俺の人生で一番長い一日は、まだまだ終わりそうになかった。
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