名古屋にSKEを観に行った。しゃわこ(秦佐和子。2018年現在は声優として活躍中)はいないけれど、ごまたん(小木曽汐莉[おぎそしおり])やくーみん(矢神久美[やがみくみ])の卒紺だ。
最初に観るコンサートが卒紺なのは、モーニング娘。と同じだ。あの時も紺野の卒業にショックを受け、同時に「とにかく一度は見なければ」という天からの指令のようなものを受けて、さいたまスーパーアリーナまで見に行ったのだ。
あの日と同じように今日も地蔵だった。最後のおぎゆり(小木曽汐莉と木崎ゆりあの仲良しコンビ)を、くーみんを、そして初めての生あかりん(須田亜香里[すだあかり])を、できるだけ目に焼き付けたかった。
コンサートはもう過去のものだが、見たという事実は一生残る。そして思い出す。今度は思い出した事を思い出す。
彼女は安らかな寝息を立てていた。それは俺にとって約一年ぶりとなる、好きな女性の安心しきってる姿に見えた。それが俺にとっても幸せだった。
その30分後、搭乗が開始され俺は彼女を起こした。彼女ら少し寝ぼけていたが、手回り品は小さなカバンだけ。俺たちに何の問題もなかった。
そしてエア・リンガスという欧州の小さな航空会社の、ロンドンまで乗ってきたANAに比べるととても小さな飛行機に乗り込んだ。
彼女はよほど疲れていたのか、またすぐに眠りについた。寝顔を見たいと思ったが俺もその後すぐに寝てしまいそのチャンスを逃した。着いた時はうっすらと明るかったロンドンの街並みが闇に包まれているのを、眠りに落ちる直前に確認した。
時刻はもう20時を回っていた。
飛行機はダブリンに到着した。わずか1時間強のフライト。遅延もあり少しだけ心配していたが、何ら問題はなかったようだ。
空港を離れたら彼女とはしばらくお別れだ。俺はダブリン郊外にあるマラハイドという小さな町に、彼女は遠く離れたゴルウェイというアイルランドでは比較的大きな都市に、それぞれ語学学校とホームステイを頼んでいた。
ダブリンはアイルランドの東海岸に、そしてゴルウェイは真逆の西海岸にある。いくら小さな島とはいえ、それなりの距離だ。3学期が始まるまで、どこかでばったり出会う事さえ望めない。そう思うと、離れる時を寂しく感じた。
だが、残り2週間となった冬休みが終われば、寮に戻り同じ屋根の下で生活するんだ。俺はすぐに気を取り戻し、トランクが出てくるのを待った。
そしてまたここで問題が発生した。俺のトランクは無事だったが、彼女のトランクは車輪が折られ内部にめり込んでしまっていた。
トランクの機能的には問題なかったが、引いて歩くにはいささか不便だった。とりあえず、2人はバス/タクシー乗り場までトランクを交代した。彼女のトランクは俺のそれよりはるかに軽かった。
ダブリン空港はそれほど大きくなく、バス乗り場まで5分もかからない。だが、俺たちにはやることがあった。本来向かうはずだったステイ先に遅くなった事を詫びねばならないし、事と次第によってはB&B(Bed & Breakfastの略。簡易宿泊所だが朝食はついてくる)に泊まらなければならないかもしれない。時刻はもう21時を回っていた。果たして目的地までたどり着けるのか、少し憂鬱な気分だった。
そこへまた問題が起きた。彼女はダブリン中心地へ向かった後、電車でゴルウェイまで向かう予定だった。だが無常にも電車はもうすでにその日の運行をすべて終えていた。
彼女はB&B泊まりが確定した。
さてどうしようか。いっそ俺もB&B泊まりになってしまえばファンタジーが起きないとは限らない。邪まな考えを隠しつつ、俺はステイ先に電話をした。
その返事はあっさりしたものだった。もう遅いから明日おいで。理想的な返事だった。これで俺もB&B泊まりだ。とはいえこの時点では、彼女と一緒に泊まれたらいいなとは思っていても、そうなるという自信は持てなかった。当時17歳の俺は、そこまでの楽天主義を持ち合わせてはいなかった。
電話を終えた俺の元へ、辛そうな表情の彼女が現れた。そして衝撃的な言葉を聞いた。
「銀行の暗証番号忘れちゃった…」
聞けば3回までやり直し可能な暗証番号入力を悉く間違えてしまい、カードをATMに飲み込まれてしまったらしい。
ここまで書いて思った。この日の彼女は異常に運が悪かった。飛行機の遅延。文無しで過ごしたヒースローでの4時間。トランク破損。終電逃し。そして暗証番号ミス。
俺は何一つウソを書いていない。感じ方、受け取り方の違い、そういうことはあるかもしれないが、少なくとも俺の目に映った事実しか書いていないのだ。
人間には人生に一日くらい、こういう日があるものなのだろう。そこに居合わせたのが俺だったことも、もしかしたら彼女にとってもう一つの不幸になるかもしれなかった。
とにかく俺は細心の注意を払い、銀行からお金を下ろした。ここで俺まで間違えてしまったら…1万円弱では2人が泊まれるはずもなく、彼女だけはB&Bにねじ込んだとしても、俺は新年早々、宿無しとなってしまう。
それを考えると、ボタンを4つ押すだけの単純作業さえ覚束なかった。彼女は最悪空港で夜を明かすと言ったが、そんなことはさせたくなかった。
普段なら何ということはない4つのボタンを押すだけのミッションを何とかクリアし無事にお金を下ろせた俺は、電話帳を調べながら手当たり次第にB&Bに電話をかけた。
この日は土曜日だった。日本で言うところのビジネスホテルに近いB&Bは、新年早々ということもあり満員ではないだろうと予想したが、同時に客が来る見込みがないからと早めに閉めてしまう可能性もあった。とても油断はできなかった。
確か3軒に断わられて、4軒目でようやく空きを見つけた。住所を確認しメモを取り、これから2人で向かうことを告げた。そしてタクシー乗り場へ向かった。
彼女はとても疲れているようで、おとなしかった。
それはそうだろう。彼氏でもない男に、タクシー代やホテル代まで出させてしまうことになる。今すでに破損したトランクも運ばせてしまっている。
俺自身はそんなこと、まったく気にしていなかった。だが、もし俺が彼女の立場だったらどれだけ申し訳ないと思うだろうか。そう考えると闇雲に慰めることは出来なかった。
5分ほど待ってタクシーに乗り、トランクを2つ押し込め席に座り運転手にメモを渡した。俺がアイルランドに渡ってから一年も経っていなかったが、そのくらいの英語は問題なかった。
ただ、俺も彼女も黙っていた。アイルランドのタクシー運転手は陽気な人が多く、話しかけられる事が常だったが、俺たちの雰囲気を悟ったのか、この日に限っては話しかけられることはなかった。彼女は彼女で申し訳なかったのかもしれないが、俺も心の中で邪なことを考えては、隣で俯く彼女に心で謝っていた。
エンジンの音だけが鳴り響いていた。僅か15分の乗車時間が異常に長く感じた。そうしてやっとB&Bに着いた。運転手に料金を払いトランクを取り出し、B&Bのチャイムを鳴らした。
B&Bは一軒家を改造していることが多く、外見はどこにでもある家そのものだった。普通の日本人が見たら誰もホテルだと分からないだろう。
出てきたのは人の良さそうなおばちゃんで、まず俺たちを労ってくれた。そして部屋に案内してもらったのだが、ここでも問題が起きた。
シングルを2つ頼んだはずだったが、案内されたのはツインルームだった。俺達をカップルと思ったのか、それともそこしか空いていなかったのか、ここではルームシェアが基本なのかもしれない…いや、それ以前に俺の英語が正しく伝わらなかったのかも…とにかく確認しようと思った瞬間、彼女が先に部屋に入ってしまった。
マズいことになった。それが正直な感想だ。
好きな女性と不意に一夜を共にする。嬉しくないはずがない一方、疲れている彼女の弱みにつけこんで迫るようなマネはしたくなかった。ただ、それを一晩我慢する自信もはっきり言ってなかったのだ。
二人きりになって漸く落ち着いたのか、彼女はいくつか話をした。
まず色んなことを謝った。私がいなければマラハイドまでなら行けたのに。お金のこと、トランクのこと、そしてB&Bのこと。ごめんね、ありがとう。そう彼女は言った。
俺はすぐに大丈夫だといい、相部屋となってしまったことを詫びた。
しかし、彼女の返事は意外なものだった。
知らない暗い部屋で一人寝るのは怖い。それが彼女がツインの部屋に真っ先に入っていった理由らしかった。タクシーの中で大人しかったのも、一人部屋だったら寝られないという恐怖感ゆえだったらしい。
そう聞いて俺はまた混乱した。理由はどうであれ、好きな女性が一緒に泊まりたかった、そう言っているのだから。
動揺を隠すためにテレビをつけた。ニュースをやっていたが内容はまったく頭に入らなかった。
そして彼女はトランクを空けて車輪を直せないか聞いてきた。
とりあえずやってみる、そう答えてトランクを受け取った。彼女の下着が目に入りそうで、手が震えていた。
彼女は安心しきっているらしくお風呂へ向かった。目の前には服や下着が詰め込まれたトランクがある。そしてその張本人が浴びているシャワーの音が聞こえてくる。
俺が人生で初めて理性を試される、そんな夜だった。
不意に風呂場から声が聞こえてきた。浴槽にお湯を溜めた。そんな感じのことを言っていた。
しばらくした後、彼女はお風呂から出てきてトランクの按配を聞いた。折れてめり込んだ車輪は外側に出したけど、止めるものがないからまたすぐ埋まっちゃうかも。そう答えた。それでも少なくともさっきよりは移動機能を取り戻した。そこでまた彼女は頭を下げた。
俺も風呂に向かい、アイルランドではめずらしく湯船に浸かりながら色んなことを考えた。もう邪まなことはあまり考えなかった。ただ長い一日に疲れていた。しかし同時に、少なくとも俺は嫌われていないはずだ、それを嬉しく思っていた。
風呂を出ると彼女はベッドに入っていた。寝ているかもと思ったが、もう一つのベッドに入った瞬間彼女から話しかけてきた。
そこからはいつもの2人だった。学校のこと。勉強のこと。そして男子と女子の間に流れていた奇妙な断絶感の原因は、彼女にあるということ。とりとめのない会話が続いた。
どうやら彼女は男性不信らしい。俺が転校する前のこと。高校1年生の秋、学校の行事で宿泊旅行に行った際、ホテルの一室でみんなお酒を飲んだという。その中には彼女も、そして彼女が当時付き合っていた同級生もいたらしい。
そして、それが先生にバレた。当然ながら全員が停学処分を受けた。そこまでは別に良かった。
だが、男が男子寮に戻って先輩にこう言ったらしい。彼女とヤって捕まった、と。
好奇心旺盛な高校生、しかも寮生活では皆が常にニュースに飢えていた。その告白は瞬く間に寮を駆け巡り、すぐに女子寮にも伝わった。そして彼女はショックを受けた。彼女の友達は憤った。以来、男女は全く会話をしなくなった。
突然の告白ではあったが、俺は驚かなかった。もうその頃には噂レベルでその類のことは聞いていたし、それが真実であれウソであれ、俺が存在しない世界の話だからあまり気にしていなかった。俺にとって重要なのは、俺は女子と普通に話すことが出来る数少ない人物の1人、という事実だけだった。
とはいえ、この時点で邪まな考えはすべて吹っ飛んだ。それがこの告白の目的だったとしたら彼女は相当ヤリ手だが、さすがにそこまでは考えていないようだった。
ただ、この日を境に彼女は俺を相当信用してくれたらしい。そこに満足感を抱きつつ、その後もとりとめのない話を繰り返し、気が付けば2人とも眠っていた。
人生で一番長い日がやっと終わった。
翌日、ベーコンとソーセージ、そしてスクランブルエッグという伝統的な朝食を並んで食べてダブリンの中心地へ向かった。彼女にはやることがある。まったくお金がないのだから、銀行へ行って窓口でお金を下ろさければゴルウェイまで行けない。キャッシュカード再発行の手続きだって必要だ。時間がかかることだから三学期に間に合うかは分からないけど、早く手続きするに越したことはない。
銀行へ向かう途中、たまたま同級生の女子に会った。俺たちがトランクを引きながら朝の街を歩いていることに驚いたようで、付き合ってるの? と聞いてきた。彼女が理由を説明してくれた。
そしてその偶然がこの長い物語にピリオドを打った。
出会ったその子は彼女と一番仲がいい。安心して任せられる存在だった。むしろ先生たちが買い物によく来る中心地を俺と2人で歩いている方が危険なのは、離れたくない俺にも理解できた。その証拠にこうしてバッタリとクラスの女子に会っているではないか!
女性2人にお礼を言われて気分良く別れた。直前に彼女が顔を寄せて、男子には絶対に内緒にしてねと言ってきた。俺は、もちろんと答えた。
こんな話がバレたら2人とも停学は免れないし、前科のある彼女は下手したら退学だ。そしてそれを俺が望む理由などないのだ。ヒソヒソと話している2人を見て、その子が、やっぱり付き合ってる? と聞いてきた。
冬休みが終わる直前、たまたまダブリンでその女の子に再び会った。少し立ち話をした。彼女は俺と別れてからも、本当に嬉しそうに「竹村くんはいい人だ」と言ってくれていたらしい。
その後、俺は急速に彼女と仲良くなり、授業中頻繁に目が合ったり、何か面白い出来事があれば話す、ということが続き、毎晩一緒に図書館で勉強したりしていたが、付き合うには至らなかった。17の俺には、寮生活という極めて狭い世界で告白し恋人付き合いをするという勇気がなかった。
ただ、この事件は、男子寮では誰も知らなかったと思うが、女子寮には広まっていたようだ。何故かと言うと、3学期から女子の対応が丸っきり変わったのだ。もともと仲は悪くなかったが、込み入った話をするほどでもなかった。言わば人畜無害な存在だった。しかし、あの事件のおかげで女子が俺を信頼してくれたようで、勉強を教えたり進路相談に乗ったりするようになった。他に原因は思いつかなかった。
時は少しだけ流れた。
大学生になった直後、町田という町の駄菓子屋で大学の友人と買い物をしていたら、突然うしろから肩を叩かれた。俺が振り向くと、そこには美しく長い髪をなびかせた美人が微笑んでいた。
俺はきょとんとした。正直見覚えのない顔だった。
するとその子が、覚えてる? と聞いた。
声を聞いてすぐに分かった。見直すとまぎれもなくTさんだった。当時はベリーショートで可愛らしい子だったが、今目の前にいるその子は黒髪ロングの美しい女性だった。
黙って感慨に浸っていたら、もう一度、覚えてる? と聞かれた。そこで慌てて返事をした。
一瞬分かんなかったけど声で分かった。
そう素直に告げると彼女は笑った。笑顔はあの頃の彼女と同じだった。
俺は学校帰りだったが、彼女はこれから学校へ向かうという。彼女が持っていた駄菓子の料金を払い駅まで一緒に向かった。突然の再会はとても嬉しくて、ただ同時に駄菓子屋という微妙すぎるロケーションに戸惑った俺は、大学の名前は聞いたくせに携帯の番号を聞きそびれた。ただ、彼女の実家と大学の所在地を考えると、またこういう機会もあるかと思い直した。駄菓子屋に戻ると級友がいた。気を利かせて隠れてくれたらしい。
その後、俺は彼女に会えていない。やはり偶然や奇跡はそうそう起きない。そういうものだと痛感した。同時に大きなチャンスを逃したのだとこれまた強く感じさせられた。
今の彼女がどうしているか、俺はまったく知らないけれど、幸せな結婚をして子供もいて笑顔で溢れている、そんな人生であってほしい。そう願っている。
もしそうならば、男性不信を取り除くという彼女の転機に立ち会えたことになる。それはそれで嬉しいものだ。
彼女は心が優しく美しい子だった。ベリーショートの似合う子だった。何より笑顔が素敵で、笑うと向日葵の匂いがする子だった。
新幹線はもうすぐ東京に着く。卒業するメンツの中ではごまたんが一番好きだったが、今日はくーみんの笑顔が印象的だった。きっとその笑顔の記憶はずっと残る。その子と同じように向日葵の匂いがした。短い滞在だったが、また一つ名古屋に大切な思い出ができた。
新幹線が東京駅の19番線にすべり込んだ。奇しくもくーみんの年齢だ。そして皆と同じようにまた何方へ向けて走り出すのだろう。
アイルランドには妖精がいるという。おとぎ話だが、信じる人にとってはそれは真実となるのだ。数多くいる妖精のうち一人は彼女に姿を変えたのだろう。
そして、九人の妖精の化身が今日名古屋から飛び立った。分かる人にしか分からないFairytailの一幕が、晴天に恵まれた名古屋の地で今日、降りた。
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