戦後初の三冠王・名将『野 村 克 也』氏 逝く !! ③【物語編】 | “ Ackee ” の ブログ !! ✒ (b^-゜)

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前回に引き続き、プロ野球界にその名を刻し、

世代を問わずに親しまれた野村克也氏の功績を偲び、

物語編風にその足跡を辿る事にする。

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『現役引退そして専任監督の道』

平成元(1989)年の秋、長嶋茂雄が固辞した事による、

監督要請があり、一度は渋り断っていた。

しかし南海時代に残っていた監督業への未練や、

現場以外の多忙な生活から開放されたい一心で、

10月19日にこれを監督要請を承諾する。

当時のヤクルトは松園尚巳オーナーの下、

ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。

しかし勝負への甘さがあり、長年にわたって負け越し、

チームはBクラスに甘んじていた。

野村の就任に対しては、暗い性格がチームカラーに合わないと、

懸念する声も多く、世間からは 「過去の人」

「ヤクルトにとっては部外者」 というイメージを持たれた。

また就任直後の12月、心疾患の疑いで一時入院すると、

早くも 「野村の次の監督」 を推測する報道がされるなど、

健康面での不安も囁かれていた。

(平成元(1989)年から、ヤクルトの監督に就任。

ここから野村氏自身が持つ独自理論である、

『ID野球』 の実践が始まった。)


翌年平成02(1990)年、データを重視するという意味の

『ID野球(Important Data)』 を掲げてチームの改革を図った。

翌平成03(1991)年には、前年のBクラスから一転Aクラスに躍進。

翌平成04(1992)年には、混戦を制してセ・リーグ優勝。

たが日本シリーズでは、パ・リーグの覇者西武と、

最終第7戦まで縺れ込む激闘を演じたが、

悲願の日本一に届かなかった。

翌平成05(1993)年、前年のリーグ優勝で自信を深めたチームは、

レギュラー陣が安定した活躍を見せ、そのままリーグ優勝。

再び前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、

再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、

遂に日本一に輝いた。

( 『ID野球』 が選手に浸透し、

Bクラスに甘んじていたチームを立て直し、

以降、チームを2度の優勝に導いた。)


以後、優勝と4位を交互に繰り返し、平成07(1005)年、

平成09(1997)年と2度の優勝を果たした。

野村がヤクルト監督の時に在籍活躍した選手には、

石井一久、高津臣吾、古田敦也、池山隆広、真中満、

広沢克実、稲葉篤紀等が、野村ID野球の洗礼を受けている。

平成10(1998)年、チームの成績も4位に終わり、

同年09月21日に監督を勇退した。
勇退後35日経った、同年10月25日に野村は三顧の礼をもって、

今度は阪神の監督に迎え入れられた。

(ヤクルトの監督勇退後の35日後、

阪神球団から監督就任要請をうけ、監督受諾した。)


阪神は例年通り生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、

電撃的な就任だった。オーナー・久万俊二郎から野村に対して

「今まで球団が監督要請をした中で、

私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです。

今、タイガースはどん底にあります。

来年、一からスタートするのにあたり、

監督にふさわしいのは野村さんしかいない。

野村さんは球界の第一人者。

あなたの右に出る者はいません」 と熱っぽく語ったという。

だが長年に渡って染み付いた意識改革するのは、

そう容易ではなかった。

当時の阪神は、本塁打を20本程度打てるものの、

三振も多く規定最低打率を争う状態だった。
また当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、

ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、

現場との指導法の違いによる確執があったとも報じられた。

しかも最下位が毎年の様に続く現状に、ベテラン、外国人、

若手がみんなバラバラで、

一・二軍との意思疎通も不協和音が流れ、

選手が育たない独特の雰囲気でもあった。

更には、長年染み付いて来た

阪神球団の独自体質も否定出来なかった。

結果、阪神の監督を引き受けた3年間、

試合前の話題創りに貢献はしたものの、

3年連続の最下位という不名誉な記録で終わった。

しかも野村にとっての最大の悲劇は、

シーズン終了後秋季キャンプは指揮を執ったものの、

沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕され、

結果、その責任を摂って12月05日付けで監督辞任した。

(阪神監督を受諾した3年間、連続最下位に終わる。

悲運にも沙知代夫人の脱税容疑での逮捕も重なり、

その責任を摂って、監督を辞任する事に…。)


平成17(2005)年09月。

野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受け、

平成14(2002)年から受けていた、

社会人野球 『シダックス』 の監督を、

10月03日付けで辞任し、併せて楽天の監督に正式に就任した。
5年ぶりに3年契約でプロ野球界に復帰する事となった。

日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは、

仰木彬(故人)に次いで史上2人目で、監督就任に際し野村は、

「このおじいちゃんに監督の要請が来る事自体、

プロ野球に後継者が育っていない事を意味している」

とコメントしていた。

1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。

楽天の監督に就任してから、

かつては自軍の選手が本塁打を打っても、

ベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、

ベンチから出て選手をハイタッチで出迎える様になった。

相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方で、

記者の質問にジョークで返したり、

ユーモアを交えて回答する様になった。

(平成17(2006)年、楽天の監督に就任。)


この時からであるテレビのスポーツニュースでは、

毎回野村の試合後のコメントが伝えられた。

特に田中将大投手が登板した日のコメントは、

「マー君、神の子、不思議な子」

「不思議の国のマー君」 等と残しており、

スポーツ紙などでは名物コーナーとして、

「野村語録」 が次第に常設される様になった。

育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、

楽天時代には活躍した選手や、

進歩が見られる選手に対しては、

素直に感謝や賞賛の言葉を贈る等、

以前とは違った面を見せ始めた。
但し息子のカツノリは同年に戦力外通告されたのを機に、

現役を引退し、コーチに転身している。

監督就任初年度、球団創設2年目も結果最下位に終わり、

史上5人目の両リーグ最下位の監督という、

不名誉な記録まで作ってしまった。
同年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、

「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。

Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。

いくら東北のファンが粘り強いと言っても、

新規参入から3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」 と、

来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。

(楽天のエース田中将大投手(当時 / 現 ヤンキース)と、

握手をする野村氏。

この頃から、田中投手が登板した試合直後の、

ぶら下がりコメントは、 「マー君、神の子、不思議な子」

「不思議の国のマー君」 等、常にスポーツ紙や、

スポーツニュースの名物となり、世間を賑わせた。)


このことは球団側も聞かされておらず、

球団代表も突然の事態に困惑していた。
3日後の11月26日に行われた球団納会において球団社長から、

前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否。

更に2日後の11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、

その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者に、

『Aクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しい』 と、

長期政権を望まれた。

しかし 「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。

来季は自分の野球生命を賭ける」 と今までと同じ姿勢を崩さなかった。
平成19(2007)年、シーズンを通して好不調の波の振幅幅はあったが、

ベテラン、外国人、若手と動きかやっと噛みあい、

シーズンの最終成績は4位で創設3年目で初めて最下位を脱出。

同年10月04日、3年契約最後の年である平成20(2008)年も、

予定通り監督を続けることを表明した。

平成20(2008)年06月29日の対ソフトバンク戦で、

球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。

この日は野村自身73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、

選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。

07月05日、対西武戦(西武ドーム)では、

「ライオンズ・クラシック」 企画の一環として、

当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった、

西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現するイベントが行われたが、

この試合では豊田泰光(元西鉄/故人)が始球式を行い、

野村が捕手を務めた。

同年07月15日、対日本ハム(東京ドーム)戦で監督として、

通算3,000試合出場を達成、

選手としても通算3,017試合に出場しており、

日米ともに前例のない、選手・監督両方での、

通算3,000試合出場を達成した。

しかし序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、

辛うじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの、

結果5位に終わった。

だが前年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、

戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。

同年シーズンを以って3年契約が終了。

去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価されて、

1年契約での続投要請を受け、野村自身もそれを受諾し、

引き続き指揮する事になった。
平成21(2009)年シーズンは開幕から、

投手陣を中心に怪我人が続出。

しかもドラフトで獲得した新人投手全員が、

オープン戦前に故障してしまう事態に成ってしまった。

スポーツ紙での解説者の順位予想では、

楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して、

「下馬評が低いからやりやすい」 とコメント。

レギュラーシーズンが開幕すると、

チーム初の開幕4連勝で好スタート。

04月を首位で終えるが、

怪我人が続出した05月以降は調子を落とし、

一時は5位にまでに後退、

だが08月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。

09月以降も好調を維持し、

09月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)で、

チーム初のクライマックスシリーズ(CS)進出、

マジックナンバー 「19」 が点灯。

2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、

チーム初のCS進出が決まった。

同月09日のオリックス戦で2位が確定し、

CS第1ステージの地元開催権を獲得し、

楽天球団として創設後初のAクラス入りと成った。

野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した

平成09(1997)年以来8シーズンぶりであった。

しかし、その翌々日・11日にKスタ宮城で行われた、

レギュラーシーズン最終戦(対ソフトバンク)終了後、

球団から契約を更新しない旨を告げられ、

同年シーズン限りでの退任が決定した。

16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝して、

第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは、

日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場は成らず。

日本ハムのCS優勝セレモニーの後、

楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。

(平成21(2009)年、チームを初めてAクラスを導いた。

クライマッマス・シリーズ(CS)、第1ステージでは、

ソフトバンク(H)を破って、第2ステージへ進出したものの、

日本ハム(H)に敗れ、

初の日本シリーズへの夢は成らなかった。

試合終了後、チームメイトから胴上げをされる野村氏。

これが監督業としての最後の花道となった。)


月11月02日、

楽天の次期新監督の就任が発表されるとともに、

一度は拒否の姿勢を見せていた、

名誉監督就任要請を受諾した。

退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、

どっと疲れが出てきた」と語った。

更に 「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、

やっぱりオレは『元南海』 がいい」 とも口にした。

この年を最後に現場復帰をしていないため、

野村自身にとっては指導者としても引退した。

平成21(2009)年がユニフォームを着て指導した、

最後の年となった。

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JG7MER / Ackee