戦後初の三冠王・名将『野 村 克 也』氏 逝く !! ②【物語編】 | “ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)
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前回に引き続き、プロ野球界にその名を刻し、

世代を問わずに親しまれた野村克也氏の功績を偲び、

物語編風にその足跡を辿る事にする。

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『プレイングマネージャーから、

南海退団まで』

昭和40(1965)年オフ以降から、

野村の恩師であった鶴岡一人との確執が表面化し始めたが、

昭和43(1968)年からは南海のコーチ兼任と成った。

翌年戦後初の最下位に終わり飯田徳治監督が辞任。

後任監督には西沢道夫や青田 昇らが候補にあがっていたが、

川勝 傳オーナーから 「南海再建を託せるのは君しかいない」 と、

熱心に口説かれ昭和44(1969)年11月01日、

34歳の若さで選手兼任監督に就任した。

監督兼任となってからも打棒は健在で、

昭和45(1970)年シーズンは42本塁打を記録。

この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、

ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、

ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。

これに対し野村は打席数を増やすために、

それまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、

本塁打を記録出来ず結果、大杉に及ばなかった。

同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。

昭和47(19729年には打点王を獲得。

(現役時代は、南海バッテリの要となる、捕手に…。)


この頃に後の妻となる、

野村沙知代との愛人関係が始まっていたとされる。

監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、

何とか投手陣をやり繰りして2位となったものの、

2年目は勝率が5割を切って4位で終わった。

ここで野村は他球団で燻っていた投手達の獲得を目指す事にした。

トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一、松原明夫を獲得。

弱体化していたチームを立て直し、

昭和48(1973)年にリーグ優勝を果たした。

当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、

実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった。

監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、

96打点の成績を残し、MVPにも選ばれた。

しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果と成った。

監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。

トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、

実は選手を借金地獄から救うためや、チーム内での交友関係を思い、

移籍先に頭を下げて引き取って貰った事もあったという。

トレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、

「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、

球場にこいや」 と言ってポンと現金を渡したという。

以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。

その一方で放出した選手の一部には恨まれる事もあった。

(昭和52(1977)年南海の監督解任を受け、

チームのユニフォームを脱ぐ事になった野村氏。)


昭和52(1977)年09月28日。

シーズン終了まで2試合を残しての突然の解任。

当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の

「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」 が理由で、

この事が野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った。

野村が 「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」 と述べている様に、

監督退任後も依然として支配力を発揮していた、

鶴岡との確執が原因の一つと考えられている。

しかし監督解任時の会見でも沙知代の「チーム・選手への口出し、

及び度重なる公私混同」を否定。 「コーチ会議に出した覚えもないし、

それほど常識のない女とも思っていません」 と発言している。

(昭和53(1978)年に沙知代さん、<故人>

と結婚した、野村氏。ともに再婚同士だった。)


解任された後の野村は進退について大いに悩み、

多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行の道を選び、

以前より誘われていたロッテに移籍した。

この年を最後に南海はAクラスに入る事なく、

平成元(1989)年にダイエーに身売りされた。

また、ホークスの連続Bクラスは平成09(1997)年まで20年続いた。

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『球団移籍から、現役退団まで』

南海退団直後の昭和52(1977)年11月17日、

金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。

懇意にしていた評論家・草柳大蔵氏からの 「生涯一書生」 という、

禅の言葉を教わり、新たに標榜した 「生涯一捕手」 は流行語となり、

今でも野村の代名詞の一つとなっている。

当時ロッテの投手だった村田兆治曰く、

「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」

また村田によると 「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んで、

ロッテへ移籍してきた」 と述べている。

ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、

何とも言えない虚しさを感じたという。

ところが金田から 「若手らにいろいろ教えてやってくれ」 と言われ、

アドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、

金田から 「コーチがやりにくいと言っている。

悪いが、教えるのはやめてくれ。」 と言われた。

(昭和52(1977)年11月、ロッテに移籍した野村氏。)


同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から、

「監督をやってくれませんか?

ロッテを君に再生して貰うしかないんだ。

本当の野球を教えてくれ」 と言われ監督就任を要請されるが、

金田が誤解すると察して固辞し、同時に自由契約となった。

結局ロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に、

山内一弘氏の監督就任を発表している。
昭和53(1978)年12月01日、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。

昭和55(1980)年は控えに回ることが多く、

殆ど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには、

全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。

1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の、

4つの年代での出場は史上唯一の記録である。

(昭和53(1978)年、西武へ移籍。控えに回る事が多かったが、

代打の切り札として活躍する事が多かった。)


また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。

このうち昭和32(1957)年から昭和52(1977)年まで21年連続で、

ファン投票選出されており、ファン投票選出回数、

連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。

昭和55(1980)年08月01日に前人未到の3,000試合出場を達成。

同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。

最後の本塁打は07月29日の対阪急戦で放ったもので、

このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録

(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかったが、

出場試合数は3017試合まで伸ばし、

この記録は平成27(2015)年に谷繁元信(中日)に抜かれるまで、

35年間、歴代1位だった。
引退を決めたのは現役最後の年である、

昭和55(1980)年09月28日の阪急戦だという。

この試合、野村は捕手としてスタメン出場。

4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、一死満塁で迎えた野村の打席で、

実働26年の選手生活で唯一の代打(鈴木葉留彦)を送られた。

犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし

(野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、

横変化の球種をやや遅れ気味に打つという、

犠飛を打つコツも体得していた)、ベンチに下がった後、

代打策の失敗を祈っていた。

結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、

その瞬間 「ざまあみろ」 と思ったという。

結果この逸機が響いて西武は試合に敗れた。

野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは、

逆の方向に向いてしまった事を悔い、引退を決めたという。

(昭和55(1980)年11月の引退セレモニーで、

現役引退を発表する野村氏。)


11月15日記者会見を行い、現役引退を正式に表明した。

引退セレモニーは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、

一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後、

キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、

それを野村が受けるというものだった。

南海の高卒新人捕手・香川伸行(故人)から花束贈呈された。

その後の記者会見終了後の野村の肩には、

ハローキティのカメラを持った、

当時小学1年生の息子・克則が乗っていた。

尚、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで、

塗装を塗り替えながら使用し続けた。

そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、

5年後に清原和博に引き継がれた。

入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、

たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合った事により、

引退まで使い続けたという。

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JG7MER / Ackee