EDIX202での講演会で、文部科学省 初等中等教育局 教育課程課長の武藤久慶氏が講演されており、その内容が記事になっていました。
(教育とICTオンライン「次期学習指導要領と教育DXの方向性を武藤氏が解説――EDIX東京」)
講演の資料の中に、次の図がありました。
生徒をこの様に、特定の意図に基づいて分類することに意味があるかどうかはさておき、先生方も今どきは大変だなという印象です。多種多様な生徒が居て大変だという意味ではなく、この図のように分類されるのが当然という状況が、大変だと思うのです。
氏の説明は、こうした多様性に対応する取り組みとして、オンラインの活用や翻訳や読み上げ機能など、デジタル教科書などによるDXを用いた学習が有効で、多様性の包摂が可能になるというものでした。
確かにその通りであり、我々、デジタル教科書や学習アプリを作っている側にすれば、まさにそれは、DX化の目的となっています。
ただ、不登校の生徒向け、特別な支援を要する生徒向け、日本語が難しい外国籍の生徒向け、という事ではなく、どの生徒にとっても、学習に不都合な部分があれば、これを補う機能が揃っている、というところが重要だと思っています。
ここ点を少し拡大して要件化すると、紙の利点や、鉛筆等で書くことのメリット、授業のように聴くという行為も取り入れた時の学習効率などが存在します。こうした点を取り入れて行かないと、DX化を目的としたものとなってしまい、インクルーシブ教育の実現というDX化の最大の目標を、見失ってしまう可能性があるなと思った次第です。
EDIX2015の会場で、LITALICOさんのブースに寄って、スタッフの方に教育ソフトを説明いただいたのですが、どこのソフトよりも、インクルーシブ教育の概念が取り込まれているなと感じました。流石に、多様な子どもたちや要支援者に触れているだけあると思った次第です。たくさん参考になりました。
それはさておき、生徒がに分類される事が当然という状況では、先生方は大変だと思う、という話の続きです。
カール・グスタフ・ユング(心理学者)が言いました。
「誰もが唯一無二の存在である。だからこそ、同じ方法では誰も救えない。」
誰も同じではなく、みな唯一無二の存在であるのは確かですが、私が子どもの頃(40年ほど前)に、45人のクラスで生徒を分類できるほど、「皆、さほどに違わない」という考えがありました。
貧富の差も今ほどではなく、ネットがないため、得られる情報の差も大きくないという状況だったからかもしれません。また、個性や多様性の尊重についての意識が、今ほど広がっておらず、また浅い状況だったのではないかと思います。
学校でクラスメイトに「昨日のテレビ見た?」と言えば、大体同じ番組の話になる程、娯楽や興味などのバリエーションは少なかった事を思い出します。
頭の良い子、そうでもない子、運動のできる子、できない子も、当然居ましたが、それはあって当たり前で、誰と誰がそうで、などといった分類をする必要がなかったと思います。
現在は、テレビなら地上波以外にも衛生やケーブル、ネットも選べます。家族構成もまちまちで、保護者の働き方も正規、非正規、フリーランスなど様々です。確かに多様化したわけですが、世間は、その多様化に過剰に反応してはいないでしょうか?
ユングの言葉のとおり、誰もが皆違うのですから、同じ方法では救えない、教えられないわけです。それは事実です。
しかし、同じ人間であり、ましてやクラスの子どもたちは同じ年代の男女であることに変わりないわけですから、共通する部分や、それぞれの固有の課題を分類・整理することはできないでしょうか?
そういった分類・整理を、あえて無機質に行うことが、個々の課題の解決に繋がるものと考えています。
DXやAIの出番は、こういったところなのではないかと思い、研究に勤しんでいます。


