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先日、映画JIMIを観てきました。
言わずと知れたJimi Hendrixがスターになる直前の
1966から67年モンタレーポップフェスに参加する直前までを描いた伝記映画。

主演のJimiを演じるのはOutCastのアンドレ・ベンジャミン。
彼の演技はすでに実録ロス市警TVドラマThe Shieldで証明済み。
最初こそ左頬にあるホクロが気になりましたが、
そのうちどうでもよくなりました。

しかしながら、右利きのアンドレがジミヘンのように
左でギターを操り、ジミヘンのギター演奏に見えるまで
それなりの時間がかかったのもうなづけます。
あれは難しいですよ。
右利き用のギターを左で指弾きするんですからね。

ただし、彼をはじめエクスペリエンスの面々にも
音のスタントマンがつき、納得の演奏にこぎつけています。
ちなみにギターは、下図のワディ・ワクテル氏。

ストーリーもよいですが、他にも見どころ満載
バディ、ハウリン・ウルフ、オーティス・ラッシュなどなど
音楽セレクションは抜群でした。
60年代ファッションにも目を奪われます。

さて、ジミ自身精神的にもろい面がありましたから、
伝記にするなら、薬物に依存していくほど
追いつめられた数か月をもう一度映像化してもらいたいものです。

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ところで、いつから27歳クラブが始まったかご存知ですか?
私がまだ学生だったころ、
ブライアン・ジョーンズやジャニス・ジョプリンなどは27歳で
亡くなったことがはっきりしていますが、
ジミヘンの場合は、『24歳で死去』ということになっていました。

これは初期の村上春樹の短編にも確かそんな記述があったのです。
『…24歳で死ぬのが理想だ。
24歳で死んだら、ジミヘンやジェームズ・ディーンと同じだからさ。
だけど、僕が24で死んでも誰も哀しがらないね。
24歳はロックの年齢だ。』
といった内容のことを書いていたと記憶しています。

映画の中でもセリフがありますが、
彼には出生証明書がありませんでした。

黒人家庭においては、
自宅で生んで役所に届けないこともよくあったのです。
別にジミだけの話ではありません。

しかも母親が育児放棄し、出奔した後、
除隊した父親に無理やり預けられましたから、
自分でも何年生れだったのか、
よくわからなかったというのが真相です。

では、そんな状態でよくパスポートが取れたかというと
おそらく教会に証明書を書いてもらったのでしょう。
80年代半ばまでジミヘンは24歳で死んだことになっていたのですが、
いつのまにやら27歳説にかわり、
27歳クラブの創設メンバーのようになっているのはどうなのでしょうね。
箔を付けるため?

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ジミヘンと同じく作られた伝説の持ち主にRobert Johnsonがいます。
有名なこの写真ですが、私の子供の頃70年代から80年代初頭にかけて、
この写真には必ず伝ロバート・ジョンソンという
『伝』がつくのが常識でした。

何せこの写真は白人ブルース研究家と称する人間が
当時、ロバジョンと演奏をしたことがある、
もしくは、見たことがあるというブルースマンたちに訊いて
証言を得たということになっているのですが、
訊く相手がブラックの人たちですから、
回答に多少誤差があることを計算に入れなければなりません。

今でこそ修正されてそれなりに見えますが、
私が知っているオリジナル写真は
それはそれはボロボロで傷みほうだい、
折れ線だらけ、しかもモノクロですから、
判別のしようがなかったのです。

そんな誰だかわからないシワクチャの写真を見せて、
ブラックの人に訊くのですから、
返事のしようがない。

「…こんな感じだったような気がするけど…。」
「…そういえば似ている気がする。」
「こんな感じだったかな…。」
等々、ロバジョンと明言する者は皆無だったのです。
ですから、ある時期まで『伝ロバート・ジョンソン写真』と
明記されていたのはしごく当たり前だったのです。

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ところが、ロバジョンといえば上の男前写真が出てきますが、
厳密に言うと別人です。
彼ではありません。

ただファンの理想を具象化した写真なので
誰も面と向かって違うとは言わないのです。
まるで坂本龍馬の妻お龍さん画像と同じです。
実際は別人。

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それにロバジョンの没年はある程度わかっていますが、
生年月日というとよくわからないのですよ。
ですから、ロバジョン27歳没も怪しいものです。

ジミヘンしかり、ロバジョンしかり、
ことほど左様に歴史は塗り替えられるのですね。
―音楽版『家政婦は見た』―

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2013年夏、首に違和感を感じた。
触ると右の首に小さいが硬いしこりがあった。
痛くはないが、気になる。

服田洋一郎には持病があった。
2004年の秋くらいから身体中の関節という関節が痛み始め、
ついには階段の上り下りにも不自由するようになった。
病名は『リウマチ』。

医師からそう告げられた時、思わず服田は笑ってしまった。
「…俺は、お婆ちゃんか…。
ブルースマンが聞いて呆れる。」

関節リウマチは服田が思うほど高齢者の病ではない。
免疫不全によって関節、特に軟骨に腫れや痛みが生じ、
やがては関節そのものが変形し、歩行困難になるのだ。
決して命にかかわるものではないが、日々の暮らしは辛い。
早く治療するにこしたことはない病である。

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当初こそ病のことを話さずにいたが、そのうち隠すのも馬鹿らしくなり、
ライブのネタに使うようになった。
笑いも取れるし、何より正直でいるのが気持ちよかった。

ただ、今まで立ってギターを弾いていたので、
今さら、内田勘太郎やジョン・リー・フッカーのように
ガッツリ座るのも妙な気がして、なるべく高いスツールに
腰をよりかかせるようにして座るようになった。
これだとパワー弾きができるからだ。

そのうち良い薬ができて、日常生活にも不自由することがなくなった。
そんな矢先にしこりを見つけたのだ。
それが2013年の夏だった。

嫌な気がした。
俺の心の声が「ヤバい」と叫んでいた。
早速、紹介された大病院で検査をしたが、
その時は、『異常なし』。

心のどこかで「…ヤバい。」という声がしていたが、
俺は、結果を信じた。
そして、再びライブ活動を開始した。
結局10月まで仕事をしただろうか。

ところが、『異常なし』の検査からわずか1ヶ月、
9月には自分でもそれとわかるほど首が腫れてきた。
その上、Gのキーが出なくなった。

また、俺の心の声が叫んだ。
「…お前、ヤバいよ。」
耳鼻咽喉科の門を叩き、検査を受けたが、
結果は、『下咽頭がん』だった。

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…来るときが来たか。

俺の心の声は本当だった。
清志郎の死因は『喉頭がん』だったが、
医者は咽頭がんだという。

清志郎のは、シンガーの命たる声帯を中心にできるものだったが、
俺のは咽頭、しかも下咽頭だという。
どう違うと言うのだ。

どっちにしても歌えないことに違いはない。
俺の頭は真っ白になっちまった。

咽頭は鼻と食道をつなぐもので場所によって上・中・下の3種があるが、
いずれにしても脳や肺に近いため早めの治療が望まれる。

下咽頭がんは清志郎野とは違うが、場所は喉ぼとけのすぐ後ろだ。
食道だからいずれ口から食べられなくなるのだろう。
そう思うと生きた心地がしなかった。

9月に入った時、風邪のような症状になった。
喉に何かしらんイガイガした妙な感じがしたが、
医者が言うには、長年の喫煙と飲酒が原因だそうだ。

…なるほど、商売柄酒もタバコもやり放題だったからな。
つまるところ自業自得ってことか…。
それにしても神様ってやつはキツイことをしやがるもんだ。

清志郎のことがあったから気をつけていたつもりだったが、
積年の澱のようなものが身体中に溜まっていたのだろう。

まあ、とにかく俺は治すしかない。
医者もそれほどかからないだろうと言ってたし、
長くても半年で復帰できるさ。
俺は、とにかく治さなきゃならんのさ。

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2014年夏、服田から直々のメールがファンに届いた。
内容は、しこりを発見してから1年、治療を始めてから半年以上、
まだ治療中ですというものだった。

病室の窓から見える風景は変わるけれど、
室温が同じ部屋の中はいつも同じ。
雨が降っていても見えるだけ、
風が吹いても木々が揺れて、それと知れるだけ。

季節の移ろいは、身体で感じなくては半分も味わえない。
あれほど時間の早さを痛感していたのに、することもなく、
ただただ治療というだけに過ぎた時間は長く感じた。

子供の頃は日が暮れるのが惜しかった。
いつまでも遊んでいたかった。
俺は、ずっとブルースという遊びをしていたのだろうか。

ある時、打ち上げで誰かが言いだした。
生まれ変われるなら、いつに戻りたいかと。
ある者は、学生時代、ある者は20代とやたらと若い頃に戻りたがったが、
俺は、このままでいいと思った。

俺は何度生まれ変わっても俺の人生を生きてるだろうから。
俺は今のままでいい。
たとえ病気でも俺は俺の人生を生きた。
最期まで俺は闘った。

人は俺を孤高の人というが、
人間は誰もがStand Aloneなのさ。
Love & Peace

はっちゃん、ありがとう。
服田洋一郎
Blues Man
2015年4月20日午後3時48分死去
享年63歳(?)
ご冥福を祈ります。

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後手に回った手術

前回、ご報告したように6月のモラトリアムを経て
7月に転移が見つかった時点で、かなりのショックを受けた私は、
医療に不信感を抱きました。

治療しているはずなのに、病巣が小さくなるどころか、
逆に大きなり、『転移』までしたのですから、
早急に手術しましょうという言葉にすぐには納得いきませんでした。

これなら治療しなくても同じではなかったのか?
痛い目をして何度も検査に堪えたのは何だったのか?
些少とはいえない金額を病院に支払い続けたのは何だったのか?
全ては水泡に帰したのです。

ステージⅣになった時点で私は死を覚悟しましたが、
このままでは終わりたくないという気持ちがありました。
そこで、セカンドオピニオンや他の手段を模索するようになったのです。

この2週間随分悩みました。
主治医もかなり気にしていたとみえ、何度も電話をくれました。
しかしながら、胸の痛みは日に日に強まり、他の手段も功を奏しない為、
結局、手術に同意しました。

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炎症性乳がんと植皮

通常の乳がんの手術では植皮、すなわち体の他の部分から皮膚を
採取し、患部に張り付けるということはしません。

ところが、炎症性乳がんの場合は皮膚表面に大きく広がること、
また、皮下リンパ管に広範囲に浸潤するため、皮膚の切除範囲が大きくなります。
したがって、腹や足などから植皮をする必要があるのです。
http://square.umin.ac.jp/jsco37/abstract/E11001.htmより)

私の場合は右足の太ももから植皮を行いました。
縦15cm×横10cm 結構な大きさです。

右胸がブラックジャックになったわけです。
ただ手術跡は決して美しいとはいえるものではなく、
自分でも直視できないほどおぞましいものでした。

本人は全身麻酔ですから、あっという間だったのですが、
手術時間も8時間弱ほとかかったようです。
また、私は第五頸椎に転移していましたから、
手術当日、麻酔医さんがやってきて、
上を向けるかどうかを確認しにやってきたほどです。

今から考えれば、かなり難しい手術だったのでしょうが、
それを患者に感じさせないように努力されていたようです。

入院中は快適でした。
なにせ至れり尽くせりでしたからね。
病院食も本当に美味しくて、食べ過ぎるほどでした。
ただ昨年の夏は雨が多く、カラリと晴れた日が少なかったのが残念でした。

実のところ、3週間ほどいた入院中も患部よりも植皮した
右足のほうが痛かったほどです。
退院してからも足が痛くて、しばらく不機嫌でした。

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首の放射線照射

退院後、しばらくは治療もお休みだったのですが、
がん細胞に休みはありません。
術後、一挙に腫瘍マーカーは下がりましたが、転移した首が気になります。

そこで、10月から放射線照射が始まったのですが、
主治医のいる病院にはマシンが無かったため、他の病院に通うことになりました。

放射線照射自体の時間はほんの数秒ですが、
準備に時間がかかります。
何せ、患部にピンポイントで当てなければなりませんから、
まずは身体が動かないように型を取ります。

私の場合は首でしたから、デコルテから頭までの型を取りました。
その後、土日祝日以外は毎日照射に通わねばなりません。
合計、14日ほど通いました。

この時の病院の皆さんには大変お世話になりました。
私はあまり大事だと感じていなかったのですが、
実は、かなり危険な状態だったのです。

首の骨がほとんど皮一枚程度の薄さで維持できている状態だったそうです。
もう少し遅かったら、骨がつぶれ、そのまま下半身麻痺になっていたと
放射線照射の技師さんのお一人が教えてくれたのです。
今考えれば、10月がもっとも危険だったのです。

しかも放射線照射は結構お金がかかるのです。
私の場合は、高額療養制度を使いましたから、
8万円を超えることはありませんでしたが、
通常ならその倍は費用がかかったことでしょう。

照射したとはいえ骨全体が弱っているので、
首のコルセットは外せません。
ただコルセットが見えるのは無粋ですから、
手作りのコルセットカバーを作り、おしゃれを楽しんでいます。
お蔭でどこに行っても気づかれることはありません。

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新たな転移

その後、右胸の全摘部分にも照射をする予定だったので、
念のためにCTを撮ったところ新たに肋骨部分と骨盤に数か所の転移が
見つかり、胸部の照射は中止になりました。
一難去って、また一難とはこのことです。

結局、がん細胞の進行を全体的に止めるために
経口型の抗がん剤をTS-1を服用することになりました。

TS-1も5FUの系統ですから、私の身体に合っているようで、
11月から3月まではTS-1を飲み続け、通院も月に1度と極端に減りました。

一時はダメかと思っていた身体が持ち直したのです。
ガンとの闘いは一喜一憂の毎日です。
日によって体調が目まぐるしく変わり、そのたびに一喜一憂するのです。

TS-1が身体に合っているとはいっても、ずっと使えるものではないのです。
使いはじめは副作用が多々見られ、効果が期待できたのですが、
しだいに身体が慣れ、副作用も感じられなくなると、
腫瘍マーカーが上がってくるのです。

TS-1との別れは3月いっぱいでした。
主治医に他の薬に替えることを提案されましたが、
私には断る意見も何もありません。

ただ以前のパクリタキセルのことがありますから、
一抹の不安があったのです。

では、次回は『免疫療法』についてです。
お楽しみに。


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京都国立博物館でただいま開催中の
『桃山時代の狩野派ー永徳の後継者たち』

狩野派の巨匠永徳以後を支えた気鋭の後継者たちを
一堂に集めた一大狩野派特集です。

冒頭の画像は、京狩野派を代表する
狩野山楽の『唐獅子図』。
永徳の『唐獅子図』にひけを取らない迫力です。
(下図が永徳)

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画面は唐獅子のご夫妻が仲睦まじく、
金雲の上を悠然と闊歩しておりますが、
永徳の唐獅子図は実は元は壁面画だったのです。

そのせいか、通常の屏風よりもかなり大きく、
これだけで完結していることがよくわかります。

ところが、その後、屏風に設えなおされ、
いつのまにやら右隻ということになりまして、
永徳の孫弟子にあたる常信が
よせばいいのに左隻を描いたのですよ。

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観よ、このレロレロ感!
気の毒に一時は永徳の右隻と一緒に展示されたこともあったとか・・・。
誰もが思わず口走ったことでしょう。
「…これはアカンやろ。」
常信・・・なんでまた描こうと思ったかな・・・。

常信は結構有名な人で、
探幽の再来とまで言われた絵師ですが、
徳川家御用絵師として仕事量も多かったのか、
魂の入っていない作品も多く、
評価が分かれる人でもあります。

一応、狩野派四大家の一人ですが、
狩野元信、永徳、探幽に比べるといささか格が落ちる感は否めません。
もしも、狩野派でなければ、
タリラリランのレロレロ派巨匠になっていたかもしれません。
個人的にはこっちが観たかったな。

現在は、永徳の『唐獅子図』とともに6曲1双として
宮内庁三の丸尚蔵館に収められております
残念ながら、京博に常信は展示されていません。

ところで、山楽の唐獅子図を観て、
あるヘビメタギタリストが思い浮かびました。

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お亡くなりになられたダイムバック・ダレルさんです。
山楽の唐獅子図にギターを書き加えたいと思ったのは
私だけではないはず・・・。

とはいえ、展示そのものは『犬追図屏風』など
珍しいものもたくさん出ていましたよ。

但し、目玉の内膳の『豊国祭礼図屏風』や
『世界地図・日本地図屏風』なんてのは、
後期も後期、それもNHKの日曜美術館の
放送を待ってからの展示です。

すんなり入れて、ゆっくり見られたのに、
また凄い行列になるかもしれませんね。


現像してくれる近所のカメラ屋さんがなくなったことを機に中断していた

『激写!Rollei35S で撮る大阪・裏世界遺産編』

昨年一度は撮影を断念した私ですが、

カメラへの思いは募るばかり。

映画『御園ユニバース』に触発され、

ユニバース横丁へ赴くと、カメラ魂が疼くこと疼くこと、

心の赴くままに激写したしだいです。

では、名作(笑)の数々をどうぞ。

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2013年10月に開催された大阪水都フェスで展示されていた

ヤノベケンジ作『サン・チャイルド』

男の子でもなく女の子でもなく性別を超えたチャイルドは

まさに『太陽の子』

顔にはこれまでの闘いを忍ばせるように数々の傷がついております。

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水都大阪名物といえば、巨大アヒルちゃんこと

この『ラバーダック』ちゃんです。

手前の現代アートの動物さんたちと供にいる姿は

この世に降臨してきた菩薩のようです。

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アヒルちゃんと戯れる皆さん

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安土城跡への石段は当時のまま。

ここを駆け上った侍たちは今いずこ。

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城好きが最後に行きつく先は『石垣』

石垣を見れば、ほぼどの時代かが推測できる

超一級の生ける資料でございます。

美しい弧を描く石垣をご堪能あれ。

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撮らずにはいられない街、

それこそが裏世界遺産たる所以でございます。

何気に撮影するもこの迫力。

Rolleiは小さな巨人です。

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これまた御園ユニバース横丁周辺のGoodな店先。

もう撮らずにはいられません。

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御園ユニバースビルディング内の回廊。

美しいシルエットに思わずシャッターを切る。

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御園ユニバース内のサザエ風螺旋階段。

澁澤龍彦なら何と言ったろう。

魅惑の螺旋。

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御園ユニバース入口のアマゾン風滝壺。

よく見ると巨大金魚が乱舞する修行僧にぴったりの滝でした。

Rollei35S は本当にコンパクトなんですが、

その力は一眼レフにも負けません。

デジタルならその場で出来不出来がわかる利便性はありますが、

フィルムカメラには『待つ』楽しみがあります。

また、出来上がった写真もデジタルにはない

アナログならでの味わいがあり、やめられません。

久々にカメラを手にした私ですが、

やっぱり写真好きなんだ…と深く感じ入った次第です。


1954年1月以降、ロックウッドの加入を機に新たな門出を踏み出したLittle Walterだが、花開いたのはブルーズだけではない。いわゆるハードバップと称される一連のモダンジャズムーブメントも大きく前進した年でもある。

冒頭は、言わずと知れたマイルス・デイビスの'Walkin'だが、それまでヘロイン中毒で才能をあたら無駄にしていたマイルスがやる気になったのは同年2月に録音されたアート・ブレイキーの『バードランドの夜』の影響が少なからずあったに違いない。ちなみにマイルスの録音日は4月である。※画像は、アート・ブレイキー『バードランドの夜』
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1954年とは社会的には人種隔離政策に対するゆるやかな抵抗が芽生え始めた時期であり、音楽的には熱く、混沌としたカオスへと変貌していく時期でもあった。

ほとんどのシカゴブルースマンらがハード・バップはおろかビ・バップさえ興味を持たなかったのに対して、Little Walterは東からの熱い風をどう受け止めていたのだろうか。非常に興味深い証言がある。Walterよりも一回りほど年下の義妹シルビアである。

シルビアは1954年2月から1959年まで約5年間をWalterと過ごしたことがあった。初めてシカゴを訪れたとき、彼女はまだ11歳だった。Littleはシルビアを新しく購入したツートンカラーのキャデラックに乗せ、意気揚々とシカゴの街を案内した。シカゴの冬は寒かったが、義妹を迎えるWalterはシルビアを『可愛い子猫ちゃん』と呼び、ことのほか可愛がった。※画像はツートンカラーのキャデラック
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シルビアがLittleの元で世話になることになった理由は、父親のクラブ経営である。母親が亡くなり、男手ひとつでまだ幼い女の子を育てるには環境が悪すぎると判断した義父がLittleにシルビアの世話を頼んだのだ。

いや、シカゴの喧騒の中のほうがよほど子供の教育には悪いのでは?と危惧する向きもあろうが、とにかく義父はシルビアの面倒をLittleに任せた。以下はシルビアの回想である。

…兄さんのことを悪く言う人はたくさんいたわ。
そりゃ、人気がなくなった60年代以降のウォルターなら
そう言われても文句は言えなかったけど、
私と住んでい頃のウォルターは、
世間が思っているような人じゃなかった。

だって、そうでしょ、そうでなきゃパパがウォルターに
私を預けるわけないじゃない。
ウォルターのことを悪く言う人は、
実際には面識がまるでなかった人ばかり。
そうでなけりゃ実力がなくて、けんもほろろに
扱われた人だった。
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無口で、あまり自分のことをうまく伝えられない人だったから、
誤解されやすい人だった。
言葉よりハープで表現するほうが得意だったの……。

ウォルターが好んで聴いていたのはジャズ系の音楽。
特にマイルス・デイビスがお気に入りだった。
他にはシンガーのダコタ・ステイトンやビリー・ホリディなんかを
よく自宅でかけてたのを覚えているわ。※画像はダコタ・ステイトン

そうそうTV番組じゃローレンス・ウェルク・ショーっていう音楽バラエティー番組を観てたわ。一緒にリビングでソファに座って観てたのよ。退屈すると一緒にチェスをしてね。ウォルターは結構強くて、私はいつも負けてばかり。※画像はローレンス・ウェルク・ショー
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私にもそりゃ厳しかったわ。
特に友達のチェックが厳しかったの。
チンピラみたいなのはダメ、チャラチャラしたのもダメ、
一番ダメだったのは万引きも含めて前科のある人間だった。

見た目が華やかな仕事だから私生活も派手なように思えるけど、
そんなことは一切なかった。
ウォルターは静かな生活が好きだったから、
ホームパーティなんてもってのほかだったの。
口癖は『勉強しろ』だったわ。
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意外でしょ?学校が嫌いでわざわざ家庭教師を雇ってもらうくらいのウォルターの口からそんな言葉が出るなんて。でもね、ウォルターはさんざん人間の嫌な面を見てきたから、騙されない為には賢くなきゃダメってことを骨身にしみてたのね。

特に女は馬鹿だと騙されて捨てられるだけだもの。だから、私にも『友達は選べ、頭を使え』って口が酸っぱくなるくらい言ってたの。

でも、当時は遊びたい盛りだったから、ウォルターの言っていることがよくわからなかった。※画像はセント・アガサ・カトリック教会
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だから、しょっちゅう反発してたわ。内緒でパーティを開いたりしてね。通った学校は1895年に建てられたシカゴでも歴史のあるセント・アガサ・カトリックスクールだった。

最初こそウォルターと一緒に暮らしていたマデリンさんが送迎してたんだけど、マデリンさんは1834年設立のクック郡病院の看護師さんだったから、時間が不規則でね。※画像はクック郡病院

それで、じきにウォルター自身が送迎してくれるようになったの。それもあの馬鹿でかくて、思い切り目立つキャデラックでよ。だから私のことは学校の誰もが知ってたわ。『あのLittle Walterの妹』だってね。マデリンさんの本当の年齢は知らなかったけれど、ウォルターより25歳は上だったように思うわ。だから、3人でいると母と兄妹に見えたの。

mud1私がウォルターと暮らした5年の間、週に3日程度の短期ロードが多くて、長期ロードは極力避けてたように思うわ。それは私がいたからだと思う。シカゴの仕事の時は、クラブの電話番号をマグネットで冷蔵庫に張り付けてくれてた。今、考えればホントに大事にしてくれてたのね。

どうしても家を空けなきゃならない時は、前の恋人のエラさんが来てくれたり、マディさんやジミー・ロジャースさんが来てくれたり、もっと後になるとボー・ディドリーさんやジェイムス・コットンさんが来てくれたりしたの。

それも皆が皆、ポップコーンを持ってね。ウォルターがキャンディは虫歯になるからダメだって言ってたらしいの。だから、皆ポップコーンだったの。いくら好きでもそんなにポップコーンばかりじゃね…。マディなんてあの顔でポップコーンを持ってくるものだから、可笑しくて。「おーい、子猫ちゃん、元気か?」って言ってね。皆、優しかったわ。

ミュージシャンが集まると賭け事をするのが当たり前って思われているけれど、そんなシーンにはお目にかかったことはなかったわ。トランプくらいなら見たことはあるけれど、賭けてる感じじゃなかった。
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それにウォルターは家で酒はほとんど飲まなかったの。家でハープを吹くこともなかった。とにかく家では物静かで、クレオール料理が好きな優しい兄さんだった。

ただ、仕事から戻るとよく鼻血を出して横になってるのを覚えているわ。お医者には鼻の粘膜が弱いから鼻血が出る。だから、思い切り吹いて強くしなさいと言われていたみたい。

でも、子供の頃から吹いているウォルターだもの弱いわけないわ。ウォルターは病院が嫌いだったから、行きたがらなかったけれど、本当は病気だったのかもしれない。私はまだ子供だったから、その様子をただ見ていることしかできなかったけれど…。※画像はLittleが一度だけ使ったコッチハープ(マリンバンドとクロマチックの中間にあたる)

義妹のシルビアが見たLittle Walterの知られざる一面である。ジャズを好み、チェスを嗜み、静かな生活を求めたWalter。世間で一般に知られているWalter像とはかなりかけ離れている。どちらが本当かではなく、どちらも彼なのだろう。

決して、ブルースだけにとどまらず、新しい音楽を求め、探求心に溢れていたWalterの姿が生き生きと活写されている。ただ、鼻血の件は気になる。それほどの勢いで吹いていたということだろうが、後年、ギターを多く使い始めたのは、身体をこわし、吹けなくなったことを意味しているのだろう。

では、最後に10穴のコッチハープを使った曲"I Love You So (Oh Baby)"を聴いていただこう。
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追悼 金子國義

澁澤龍彦を知ると同時に知った画家。

塗り込められた油画も良いが、

好きなのは素描やデッサン画だった。

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そして、金子といえばAlice。

金子のアリスはルイス・キャロルのそれとは

随分と印象が異なっていたっけ。

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「さあ、エロスの庭へようこそ。」

それが金子のアリスだった。

意図しないエロスを身体いっぱいに包含させられた少女

それがアリスである。

アリスと一緒に安らかにお眠りください。

金子國義さん。
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子供の頃、図画工作の時間に使っていた絵具、

皆さん、覚えていらっしゃいますか?

そうです、あの12色入っているスタンダードなものです。

たいていがこのタイプですが、ちょっとお金持ちの子になると

24色入りを持って来て、自慢したりしてましたけど…。

どうしてこんなことを思い出したかと言うと、

丸亀城のゆるキャラのペット(亀)の名前が

『ビリジアン』だったから。
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というのも、その亀は『ミドリガメ』だったのですよ。

だから、ビリジアン。

うわっ!そう言えば、そんな色あったわ~としばし感嘆。

そこで疑問が一挙に噴き出したわけですよ。

小学生の低学年から使いますから、色の名前は基本ひらがな。

レモンいろ・やまぶきいろ・ちゃいろ・おうどいろ

しゅいろ・あか・きみどり・ビリジアン・あお・あいいろ・くろ・しろ

子供心にも『きみどり』が横にあるなら『ビリジアン』も『みどり』でええやろ!

と思ったことです。

それに、『おうどいろ』は、誰も『おうどいろ』とは言いませんでした。

みんな、嬉しそうに『う○こ色』と言ってましたよね。

『ぐんじょう色』は、なんだか言うのが恥ずかしい色でした。

そんなことをちょいと思い出してしまいました。

また、絵、描こうかな。
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CEAって何だ?

血液検査の項目にCEAというものがあります。
簡単にいえば、タンパク質の一種です。
胎児の消化器細胞にだけ存在するもので、大抵は、大腸がんや胃がんなどの
検査に使用されますが、それ以外のがんでも陽性反応を示すので、
乳がん患者にも使われます。

手術や抗がん剤投与後は、数値が低下しますが、
逆に数値が上がると転移、再発が疑われます。

このように『がんの進行とともに増加するある生体因子』の総称を
腫瘍マーカーを言うのです。
但し、健康な人でも腫瘍マーカーは存在しますから数値が5.0以下なら
心配はありません。また、これだけではがんとは判断できないので、
既に発症している場合に限って、信頼できる数値となります。

さて、2014年1月下旬から5-FUの4回投与が始まった私ですが、
投与前と投与3回目を比較するとかなりの効果が出ています。

2014/01/09 CEA 17.1
2014/03/10 CEA  7.0

3月下旬に無事4回の投与が終了した時には、
ほぼ半分程度に右病巣部が小さくなっていました。
おそらく5-FUが私の身体に合っていたのでしょう。

4回終了後、約1ヶ月の休養期間を置いた後、
主治医は次の段階に進むべく、薬を替えようということになりました。

私としては5-FUが合っているのだから、このまま続けるほうがよいのでは?
と伝えましたが、医師のセオリーとしては、替えるのが普通だったのでしょう。
5月に3日間入院し、次の薬『パクリタキセル』を試すことになりました。


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パクリタキセルって何だ?

別名植物アルカロイドとも呼ばれます。
毒性の強い植物の中にはヒトのDNAの合成に作用するものがあります。
これを利用して、がん細胞の増殖を防ぐのが植物アルカロイドです。
大きく分けて、『トポイソメラーゼ阻害』と『微小管阻害』の二種があります。
私が試したパクリタキセルは後者の『微小管阻害』にあたります。

がん細胞と普通の細胞の増殖スピードに着目した抗がん剤です。
特に、炎症性乳がん細胞は増殖スピードが速いですから、
主治医がこちらに替えようと考えたのもうなずける話です。

写真の可愛い赤い実がイチイ科の植物です。
沖縄を除く日本全国に分布しているよく見かける植物です。
そんな身近な植物にこんな力があるなんて驚きですね。

実は甘いのですが、種子、葉など全体に有毒のアルカロイドの
タキシンが含有されています。
水に溶けにくいので、これまでは無水エタノールなど
アルコールを含む溶剤が使用されていましたが、
今は、アブラキサンという生理食塩液に溶かすことができる製剤があります。

しかし、入院時に思わぬことが起こりました。
これまで順調に抗がん剤が投与できたので、まさかこんなことがあるとは…
検査結果を伝えに来た医師の顔色が暗かったので、何事かと思ったら、
白血球数が上がっていないというではありませんか。

当初予定は 1ヶ月:1回×4回でしたが、1週間:1回×12回に変更になりました。

まず、頭に浮かんだのは費用でした。
抗がん剤投与は外来で済むとはいえ、1回で2万円前後はかかります。
月に1回だからこそ通院も支払いもできますが、
毎週、毎週、2万円こそしませんが、1万5千円ほどかかり、それが12回続くのです。

しかも、私の保険には通院保障が付いていませんでしたから、
身体よりも先に経済的にどうかという問題が先に出ました。
もちろん、8万円以下ですから高額療養費も使えません。

困ったな…というのは本音でした。
この頃から暗雲がたれこむようになったのです。


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パクリタキセルが効かない!

完治も可能だと信じた4月から急転直下の5月でしたが、
気を取り直して、パクリタキセルの投与が始まりました。

2014/5/10 第1回目の投与
2014/5/19 第2回目の投与
2014/5/26 第3回目の投与

パクリタキセルは効果が高く、特に乳がんの治療として
有名な抗がん剤として知られています。
副作用として骨髄抑制、間接痛、爪等の変化、発熱等がありますが、
この骨髄抑制が問題なのです。

白血球数も減少するので、あまり強いものを投与すると
肝心の身体が参ってしまうので、週1度で合計12回のほうが
良い場合もあるのです。
主治医と私はこのように考えました。

しかし、私の身体に問題が起こり始めたのです。
3月末に確かに小さくなっていたはずの病巣が再び大きくなり始めたのです。
4月いっぱいまで4回目の5-FUの影響下にあるので、大丈夫でしたが、
パクリタキセルに替えてから、どうも薬剤が効いていないのでは?
と心の声が囁き始めたのです。

5月も後半に入った時、医師に
「一度、小さくなった病巣が再び大きくなることはあるのですか?」と
尋ねました。
医師の答えは、「そういったことはほとんどないですね。」でした。
一時はホッとしたものの不安はぬぐわれませんでした。

心の声と身体の変化には、タイムラグがあります。
いち早く心の声が『薬が効いていない。病巣が大きくなっている』と
危機を発しても数値としてあがってくるまで約1ヶ月ほどかかるのです。
この時もそうでした。

私に訴えを聞き、再度検査を行ったところ間違いなく病巣は大きくなっていました。
そこで、一度やめた5-FUに戻したのです。
これが6月17日です。

すると、みるみるうちに病巣に効果が表れたのです。
そこで、私は、もう一度5-FUに戻すことを提案しました。
この時に炎症性乳がんの怖さを知っていたなら、
抗がん剤よりも手術を優先したでしょう。誤算でした。

なぜなら、この時は転移もしておらず、
病巣の大きさもそれほどではなかったからです。


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がんの増殖は止まらない

5-FUはひとまず効くのですから、これを続ければなんとかなるという
素人考えはしょせん素人考えでした。

実はこれ以降、週1度の点滴に何度も通うものの肝心の白血球数が上がらず、
6月はたった一度投与したに過ぎませんでした。
しかし、身体の中のがんの増殖スピードは止まりません。

日に日に痛くなる病巣を抱え、不安な気持ちを抱えることになったのですが、
ある時から読書の折に、首のだるさを感じるようになったのです。
以前にはなかったことです。

7月8日、採血後に腫瘍マーカーの上昇が認められました。
やはり、私の怖れていたことが起こりました。
1ヶ月前から感じていたがん細胞の増殖ですが、数値に表れるまでに
やはり1ヶ月はかかるのです。

ですが、まさか『転移』していようとは……
同じ病巣部分だけだと思っていたのです。

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7月15日、初めて私はPET検査というものを受けました。
MRIよりもさらに微細ながん細胞もキャッチできますから、
より正確な診断ができるというわけです。

しかし、まだどこの病院にもあるわけではありません。
私の場合も遠くの病院まで行かねばならず、
さらに費用は、4万円弱ほどかかりました。

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これでわかったのは第五頸椎、つまり、首の転移です。
6月頃から首がだるかったのはこのせいだったのです。

しかし、イラストを見て、おわかりでしょうが、
首は頭をつなぐ生命線です。
神経もあれば、血管もあります。
骨に移転しているということは、病巣が大きくなれば、
ゆがて脊椎を圧迫し、最悪の場合は、首から下が麻痺という事態に陥るのです。

医師は、すぐに手術を提案しました。
当然のことです。
がんの進行を一刻も早く止めたいという思いがあったのでしょう。

ところが、私は『転移』したということで物事を
冷静に判断することができなかったのです。
今から考えれば、本当に愚かでした。
転移=死 と思い込んでいたのです。

では、次回は『苦悩した2週間』です。

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そこはうす暗く、霧がかかっていた。
知っているはずの場所なのに、どこだかわからない。
ここはどこだ?

……ゴゴゴ……ゴゴゴ…
遠くで風がうなっている。

その風の音の合間から微かに、微かに別の音が聞こえる。
……や……や…

俺はその声がするほうに足を向けた。
……ボ……や、……ボ…ウ……や
声は確かに聞こえた。
だが、聞き取れない。
霧で湿った足元に気をつけながら、俺は小高い丘を登った。

……ぼ…う……や、……ぼう…や……
丘を登り切ったところに女の人が立っていた。

……坊や、……坊や…
風の中で微かに聞こえていたのはこの声だった。
女の人が「坊や、坊や」と叫んでいた。

俺はその人がママだとわかった。
ウェーブのかかった綺麗な髪、仕立てのよい白いブラウス、
足首が隠れるほどのロングスカート。
後姿からでもその人の美しさがわかった。

俺は夢中で声を掛けた。
「ママ、ママ、僕だよ。ウォルターだよ!」

叫びながら、俺はその人のそばに行こうと走った。
懸命に走った。
なのに、ちっとも前に進まない。

「ママ、ママ、こっちを向いて。
僕のママでしょ?僕だよ、ウォルターだよ。」

心ははやるものの何故か足は思い通りに動かない。
「ねえ、ママ、ずっと待っていたんだよ。
なんで迎えに来てくれなかったの?
ママ!ママ!」

霧の中のその人は今にも消え入りそうだった。
そうして、ゆっくり振り返った。
クレオール特有の明るい肌、ほお骨が高く、鼻筋のとおった美しい顔、漆黒の髪、
全てが美しかった。なのに、その眼は哀しみにあふれていた。

「どうしたの?ママ、哀しいの?
僕だよ、やっと会えたんだよ!」

その女の人は哀しげに俺の顔を見つめたまま、長いこと口を利かなかった。
そして、ゆっくりと首を横に振った。

「……あなたはどこの子?
私が探している坊やはね、ほんの赤ん坊なの。
生れてまもなく父親に連れて行かれたまま生き別れになったの。
だから、こうして探しているのよ。
ああ、一体どこにいるのかしら…。
だからね、私の坊やはあなたのような大きい子じゃないの。」

その言葉は俺を黙らせるのに十分だった。、
そして、その女の人はとどめの言葉を放った。

「……坊やの名前、坊やの名前はね、マリオンというの。
私がつけたのよ。いい名前でしょ?
ごめんなさいね、ウォルターじゃないのよ。
あなたもお母さんに会えればいいわね。」

そういうと彼女は、霧の中にゆっくりと消えていった。

「待って!行かないで、ママ!
僕がそのマリオンだよ。大きくなったんだよ!
ウォルターっていうのはダッドが付けたんだ。
だから、行かないで!」

叫びながら、俺は泣いていた。
どんなに叫んでも、どんなに追いつこうとしても彼女には追いつけない。
足はまるで金縛りにあったように動けない。

すると、後ろから声がした。
「おい、また、言いつけを守らなかったな!
畑仕事を手伝えと言っただろう!」

振り向くと、怖い顔をしたおじいさんがいた。
パァパだった。
おじいさんはしつけに厳しい怖い人だった。
言いつけを守らないとお仕置きだといって鞭でぶたれた。

「さあ、手を出せ。出すんだ。」
そう言って、手の甲に鞭を喰らわせた。
「嫌だよ、嫌だよ。」
「いや、ダメだ。お前はいつも嘘をつく。
お前の父親もダメな男だった。お前もそうなのか?ああ、なりたいか?
刑務所に行きたいか?」

……やめて、やめてよ。お願いだから。
louis1「……ウォルター!お前って奴は、俺が気に入らないのか?」

声が変わった。俺は思わず顔を上げた。すると、そこにはパァパじゃなく、ルイスが立っていた。

ああ…、夢か。どれくらい時間が経ったろう。シャツが汗でぐっしょり濡れていた。俺は泣いていたんだ。また、嫌な夢を見ちまった。

そうだ、ルイスの代りを探さなきゃならない。だが、一体誰がいる?ルイスの馬鹿野郎。何も抜けるこたぁないだろうに。

Little Walter&The Jukeの音楽活動は申し分なかったが、バンドの運営方法には問題があった。積りに積もった不満が爆発したのは、1954年1月、彼らが西海岸にいた時だった。当時のギャラは、最低保証金+客数×歩合で計算されていた。客が少なくても最低賃金は保証されていたから、客数が多ければ多いほどパフォーマーの儲けになるわけだが、正当な額を渡そうとしない悪どい連中も珍しくなかった。

riviera1西海岸のロード中もそうだった。ルイスとフレッドがたまたまプロモーターたちが悪巧みの相談しているところに行きあったおかげで未然に防ぐことができた。

そうでなければ、Little Walterは900ドルではなく、その3分の1の300ドルを握らせていたに違いない。二人は、感謝されることはあっても無下に扱われるいわれはひとつもなかった。なのに、Littleが彼らに支払ったのはたったの10ドルだけだった。これにはさすがのルイスも頭にきた。

「おい、ウォルター!
お前って奴は俺たちが嫌いなのか?
いや、お前って奴は、俺たちだけじゃなく、どんな奴も気に食わないんだろうな。
つまり、お前には俺って人間は必要ないってわけだ。」

「どういう意味だ?」

「俺たちは、お前がもらいそこなうとこだった900ドルをものにしてやったんだぜ。
なのに、お前って奴は、たった10ドルしかよこしやがらない。
きっと、お前は、その10ドルだって取り上げるんだろ?
シカゴに戻ったら、次のギタリストを探すんだな。
俺は、俺という人間をちゃんと評価してくれる連中とやる。
これは最後通告だ。わかったな。」

floyd1そして、言葉通りルイスはバンドから離れていった。
ルイス脱退後、後継者を見つけるのは容易ではなかった。それはLittle Walterと他の連中との考え方の違いだった。マディ・ウォーターズなら上手くやっていたろう。マディはどんな連中とやっても給与水準にみあった金額を渡していたから、もめることはなかった。

では、Little Walterはどうか。Littleがバックバンドに求めるのは、自分のサウンドを表現できる一流のミュージシャンだった。しかし、自分よりも格下だと思えば、ギャラをほとんど渡さなかった。この扱いに不満を持つのは当たり前だ。彼らは音楽的には格下かもしれないが、立派にバンドリーダーとして活躍できる力量を持っていたからだ。

では、Little Walterという人間はひどい吝嗇だったかといえば、そうでもない。気が向けば酒場にいる全員に奢ってみせたり、高級な衣装を突然プレゼントしたり、気前の良さも大いに発揮している。そのおこぼれを頂戴して、良い目を見た者は多かった。

ただ音楽仲間に対しては妥協をしなかった。彼が一目置くのは、確固とした自分のスタイルを持つアーティストだけだった。それ以外は、全て小器用に楽器が弾けるミュージシャンでしかなかった。彼の基準でいえば、ルイスも一流ではあるが、決してアーティストではなかったのだ。だから、ギャラもそれに見合った額しか渡さなかった。それが10ドルだった。だからこそルイスは腹を立てたのだ。

……俺にはLittleほどの才能がない。

ルイスもこのことはよくわかっていた。だが、いくらバックバンドでもプライドはある。それをLittleはコケにした。ルイスの最も触れてほしくないところを見事に突いた。結果、ルイスは出ていった。マディほどの大人ならこのあたりの機微がわかるのだが、いかんせんLittleは若いながら人生の大半をストリートで過ごした人間だったから、努力をしない者には厳しかった。

彼が才能を開花させたのはやはり努力を続けたからである。誰もしたことがないことをやってのけたのは、絶えず音楽のことを考えていたからだ。他の連中が遊んでいる間に、思いついたフレーズを封筒に走り書きすることはよくあったし、新しい曲を試しているところを見られるのを嫌がった。

Little Walterにはストリートで培ったプライドというものがあった。

……俺は同じことは二度しない。
だが、バックはどうだ?毎夜、同じことばかり演っている。
マディのところならそれでいいだろうが、俺は違う。
思いついたフレーズを試し、気の利いたカッティングを入れ、
客を半狂乱にさせる、これが俺のやり方だ。

ルイスが文句言うのが俺にはわからない。
食費も部屋代もガソリン代も俺が出してやってる。
酒代は店持ちだし、後は遊ぶ金くらいのもんだ。

俺が毎日、頭を使っている間、連中は何してる?
いぎたなく寝ているか、博打をしているかだろう。

満杯の客を前にしていい気持になれるのも俺がいるからだ。
あいつ一人で客が呼べるか?
勝手にしろ。他の奴を当たる。

だが、ルイスから事情を聞いていた他の音楽仲間はこぞってLittleの誘いを断った。ロードに出て一日たった25ドルでは割に合わなかったからだ。※画像はフロイド・ジョーンズ

フロイド・ジョーンズも誘われた一人だった。
「……ウォルターか。ルイスに逃げられた後、
俺にどうかって誘いにきたけど、断ったよ。考えてもみな。
あいつは、日に375ドルをものにしても仲間にくれてやるのはたったの25ドルさ。
もちろん、ロードでの部屋代だの、運搬費だの、食費なんかを払ってたさ。
それでも仲間に25ドルはなかろう?
俺たちは、奴の車と運搬の車の運転なんぞも含めて面倒みなきゃならんのさ。
だから、あいつにこう言ってやったのさ。

『お前は週に2.3回だけの仕事だろう。
だが、お前のバックをやる俺たちは、それだけじゃないんだぜ。
自分のバンドの面倒をみなきゃならんし、誰もいなくてもシカゴの家の家賃も
光熱費も払わなきゃならんのさ。
だから、25ドルじゃ割にあわねえのさ。』
『そうだよな。でも、俺はあんたの面倒をみるつもりでいるよ。』
『じゃ、衣装はどうなんだよ?散髪は?ほら、どうなんだよ?』
『……そうか、そうだな。あんたもバンドを持ってるんだよな。
わかったよ、他の奴を当たってみるよ。』
と、まぁ、ウォルターはそう言って諦めたってわけさ。」

davemyers1ルイスの後釜が決まるまでの苦労を弟のデイブが語っている。※画像はデイブ・マイヤーズ

「兄貴はもうウンザリだって言って出て行ったんですよ。僕はもう少しいましたけどね。でも、ルイスの後が決まるまではたった3人でロードに出たことだってあるんです。こんな状態を続けるなんてできやしませんよ。

これはウォルターが一番感じてたんじゃないかな。シカゴに戻るとロバート・JR・ロックウッドと初めてセッションをしたんです。フレッドと僕とで懸命に彼がやりやすいようにお膳立てしたんですよ。それがロバートにわかったかどうかは知りませんけどね。」

デイブもフレッドもロバートは初対面だったが、ロバートが加わったのには理由がある。Littleが頼んだのだ。以下は。1955年のロバートのインタビューからの抜粋である。

「ウォルターのことはほんの子供の頃から知っていたせいで、
あいつは私のことをある意味父親のように思っていたんでしょう。
ルイスが脱退したことは知ってました。
ある日、あいつが私のところに来て、涙を流しながら頼むんですよ。
『お願いします。どうか俺と一緒にやってください』ってね。
まあ、実のところ、私にはハープに対してこだわりはなかったし、
かといって好きってわけでもなかった。
だから、あいつは私にとって初めて組んだハーピストってわけですよ。
それで、こう言ってやりました。
『オーケー、わかった。
他の人間が見つかるまではやってやるよ。
だが、俺にしちゃ、数年を無駄にするってことだ。
高くつくぜ。』ってね。

ロバートのこの発言に疑問を持たれる方も多いと思う。それは、Littleが子供の頃、すでにロバートがハープのライス・ミラーと共にユニットを組んで演奏していからだ。彼の言う『正真正銘初』というのは、レコーディングも含めて真面目に向き合ったという意味ではないだろうか。

そして、ルイスの後をロバートが継ぎ、デイブは以前と同じようにベースラインを弾いた。
1954年2月22日、Walterがユニバーサルスタジオに再び戻ってきた。この日に録音したのは、
"Come Back Baby" "Rocker""Oh, Baby" バックはデイブ、フレッド、そして、ロバートである。

では、最後にLittle Walterの魅力をあますことなく伝えているRockerをお聴きください。