africausa1

「ねえ、Little見て!スゴイわ。
ほら、本物のチーターよ。悠々と歩いているわ。
なんて綺麗なの。素晴らしいわ。」

そう叫んだのはウェイバー・グラスコックだ。彼女は、Littleの義父が母と再婚する前に別の女性に生ませた娘で、Littleより10歳年上だった。法的には義理の姉弟になるが、何ら問題はなかった。

nightclub1二人の出会いは、Littleが家出したニューオーリンズ時代に遡る。そして、10年ほどの期間を置いて、南部ツアー中に二度目の再会を果たしたのだ。以来、ウェイバーは、ツアーコンパニオン兼恋人兼マネージャーのような役割を担うようになった。彼女の仕事は、ギャラの目安となる客の数を勘定することと、ライブ中に汗をかいたLittleにハンカチを持っていくことだった。

当時の黒人専用クラブには、白人のためのテーブル席が幾つかあった。無論、金額は黒人客より数倍高額だが、それでも観たがる白人は多かった。そんな白人連中を見下ろしながらハンカチを渡す自分が誇らしく思えて、ウェイバーはこの役割が気に入っていた。

そんな35歳にもなる大人の女性をここまで喜ばせたのは、フロリダにあるアメリカ初のサファリパーク『アフリカUSA』だった。それまでにも多くの動物園があったが、本格的なサファリパークは1953年にオープンしたここだけだった。

「Little、見てってば!スゴイじゃない。
ここしか見られないのよ。」
ウェイバーはそう言いながら、持っていたカメラでチーターの撮影を始めた。

「おい、よせよ。
俺はそういうの好きじゃないんだ。
もう行くぜ。」

bermuda1Littleはそう言うとくるりと背を向け、チーターがいる場所から離れた。ウェイバーは自分から離れていくLittleの後ろ姿を見送りながら、独り言ちた。
「ああ、彼ってなんて素敵なんでしょう…。」

麻のジャケットに、流行りのスリッポン、バミューダ―ショートパンツを着こなす姿は、まるでメンズファッション誌GQから抜け出したみたいだったからだ。

だが、ウェイバーにはLittleが言った意味がよくわからなかった。好きじゃないと言ったのは、カメラ撮影だったのか、チーターなのか。チーターの前足には走れないよう1mもある大きな鎖が付けられていた。

cheeta1フロリダの空は青くて高かった。シカゴのどんよりした曇天の空とは大違いだった。Littleはタバコの煙を吐き出しながら、デイブのことを考えた。

…あいつ、ルイスのところに戻ったんだな。ルイスはオーティス・ラッシュと組んでるらしい。
あいつが抜けたせいで俺はまたロバートJrに頭を下げなきゃならなくなった。

あいつが抜けたのは、54年の8月だった。
辞めると言いだす直前にルイジアナで白人女が元で警官と大ゲンカになったっけな。
ほとんど俺が殴られて、あいつは後ろにいただけなのに…怖気づけやがって。
それで翌日には『辞める』って言いだしやがった。

davemyers1『おい、Little、お前、ちゃんとギャラってものを計算してるか?
俺が今計算しただけでもお前はもらうべき金額をもらってないんだよ。
お前が自分をもっとコントロールしてたら、こんなことにはならないはずなんだ。

俺たちがちゃんとギグの会場に来てスタンバイしてても
メインのお前が顔を出さなかったら、俺たちはただ働きだ。
他にもある。一部に出ても二部からふけちまったら、
やっぱりギャラは半分ももらえないんだよ。

お前さえちゃんとしてたら兄貴だって辞めることはなかった。
俺だって辞めることなかったんだ。
お前には悪いが俺は兄貴についていく。
それしか方法がないんだ。

なあ、Little悪いことは言わない。
友人として忠告してるんだ。
自分を律しろ。大人になれ。もうストリート時代のお前じゃないんだ。
ビルボードで1位が何週も続くスターなんだよ。』

デイブの心からの忠告もLittleの耳には念仏でしかなかった。
怒りのほうが先に立った。
まるでルイスとデイブが一緒になって自分を仲間はずれにしているかのように感じた。
仲間はずれにされてたまるかLittleはそう感じ、棘のある言葉で対抗した。

『デイブ、お前レナード・チェスにでもなったつもりか?
俺が仕事をうまくやってないって言うのか?
気に入らないなら出て行けよ。勝手にするがいいや。
ルイスのところへ行けよ。』

そんな言葉しか出てこなかった。
本心ではなかったかもしれないが、Little Walterは頭を下げることができない男だった。
挙句、プロモーターからもさじを投げられ、契約更新は打ち切り、即時解雇された。
これが潮時だった。

Littleには鎖に繋がれたチーターがどう見えたのだろうか。
……俺はあのチーターのようにはならねえ。
走れないチーターなんてなんの魅力がある?
俺はああはならねえ。

tucker1デイブの後に入れたのが、まだ18歳のルース・タッカーだった。連れてきたのはロックウッドだった。ルースが12,3歳の頃から知っていた関係でデイブの後釜に据えたのだ。

童顔でどっから見ても未成年にしか見えないルースは、よくクラブ前で止められたが、そのたびにロックウッドが俺と演奏するんだと言ってかばってやった。

だが、ルースが加入してからも無茶な生活は変わらなかった。顔の傷はストリート時代よりも増えていったが、原因はケンカだけではなかった。義妹のシルビアによると半分は交通事故によるものだという。

cop1ケンカには大きく分けて二つあった。女がらみと警官がらみだ。どちらも良くないが、後者はうんとたちが悪かった。なにせ白人警官たちはLittleを殺そうとしているとしか思えない殴り方をしたからだ。

だが、なぜLittle Walterという男はそれほど警官たちともめなければならなかったのだろう?それもスターになってからが一層ひどくなっている。

原因は白人警官たちの悪徳ぶりにあった。連中はLittleが稼いだ金を掠め取ろうとやっきになったが、Littleは決して首を縦に振らなかった。これが殴られる原因だった。他の人間なら適当に金を掴ませて上手くやるところだが、Littleにはそれができなかった。結局、顔に傷どころか、半殺しの目に合うことも一度や二度ではなかった。実のところ、彼の死の遠因も警官とのケンカで受けた頭に受けた古傷が裂けたのが致命傷になったのだ。

moneyroll154年から55年のわずか1年の間にも入院するような危ない目に何度も合っている。しかし、ほとんどがプライベートタイムだった為、バンドメンバーも知らないことが多かった。ある日など、頭に包帯を巻いて出てきたことがあった。理由を聞いても何も言わず、ただ仕事をして帰っていっただけだった。この時の傷もかなり深く、医者にハープを吹くことを止められていたにもかかわらず、Littleは構わず吹いた。

銀行にも預けないLittleの金の管理は独特だった。いつも輪ゴムで丸めた札束をキャデラックのトランクに無造作に放り込むだけ、それだけだった。Littleの札束銀行を見た人間は多い。ソウルシンガーのボビー・ラッシュもその一人だ。偶然、道すがら出会うなり、バーに誘われたという。

「今からウォーキーガンでギグをやるんだ。暇なら来いよ。」ってね。
俺も暇だったからついていったんだ。
ギグが終わると、Littleがバーをセッティングしてさ。
店には、女が7,8人いたっけな。

俺も金はあったよ。
あったけどLittleが奢るってんだから、それでいいじゃないか。
でっ、支払いの時間になったんだ。
すると、Littleの奴が俺について来いって言うのさ。
なんだか知らないけど、ついてったんだ。
着いた先は駐車場だった。
bobby1奴のでかいキャデラックが停まっていたのさ。
すると、おもむろにトランクを開けてさ。
俺は、あんな光景初めて見たよ。

あのデカいキャデラックのトランクが札束で一杯なのさ。
俺は酔ってたけど、そいつを見たら酔いも覚めちまってさ。
袋にもいれず、ただ裸のままの札束がぎゅうぎゅう詰めだったのさ。あれにはたまげたね。

あんまり一杯だったもんだから、風が吹いたら金が飛んじまうのさ。
Littleが風に飛んだ札を拾って、足でトランクに押し込んでたよ。
俺は、後にも先にもあんな景気の良いシーンは見たことないね。

札束って言ったって、今考えたら1ドル札や10ドル札が多かったかもしれないが、それでも当時の俺には『億万長者ここにあり』っていう感じだったよ。それくらい景気が良かったのさ。ただ、そんな時代は長くは続かなかったけどね。

驚く俺を尻目にLittleは、掴んだ札束をくれるのさ。
やるよってね。感動したね。
俺は、明日からハーピストになろうって思ったくらい感動したんだ。
それくらい当時のLittle Walterって男はカッコよかったんだ。
おしゃれで、景気が良くて、悪口言う人間も結構いたけど、
悪い奴じゃなかったんだ、でも、それも50年代までだったけどね。

Littleの札束銀行はボビーが言うように長くは続かなかった。Littleが怖れていた悪魔は、警戒していた他のハーピストでもなく、ライバルと敵視し続けたマディでもなかった。悪魔は、笑いながら通りの向こうから歩いてやってきた。

次回、半径1mの男その2をお楽しみに。
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円山応挙『遊虎図』の一部

あべのハルカス美術館一周年記念の特別展が
『昔も今も、こんぴらさん。-金刀比羅宮のたからもの』です。
2015年5月22日~7月12日まで。

先日、ようやく行ってまいりました。
ハルカスに行くのも初めてなら、美術館も初めて。
建設中にドライブがてら見たハルカスの印象は、
まるでおもちゃのブロックビル。

…地震が来たらブロックごと崩れるのかな~
なんて、思っちゃったものですが、そこは耐震施行をしているのでしょうね。

というわけで『こんぴら展』ですが、
全体にゆる~い感じ。
お参りする方も、奉納する方も物見遊山気分が炸裂していて
全体にゆるかったな。

jackchu1

応挙の『遊虎図』なんて、ゆるさの最たるものです。
若冲の『花丸図』こそちゃんと描いてましたけど、
やっぱりゆるい。
でも、これがこんぴらさんの魅力なんですね。

やたらに狗が出てきますが、その昔、忙しくてこんぴら参りができない
主人に代って、狗が代理で参ったことから
ついた名前が『こんぴら狗』
いや~のどかじゃありませんか。

konpirainu1

真ん中に座る柴犬らしき犬が『こんぴら狗』です。
なんとも微笑ましい絵です。
ただ、あっという間に観終わりました。
他の美術館や博物館に比べて狭いというか、展示品が少ないというか、
「えっ、もう終わり!?」っていう感じ。

もうちょい学芸員さんの意地というか、
心意気を見せてもらいたかったな。
結局、応挙の虎なんだか猫なんだかの
襖絵に象徴されていた気がします。

rosetu1

長沢芦雪の『鯉魚図」はよかったな。
応挙を超えたね。


jaccas1Little Walter最大のヒット曲といえば、デビュー曲の"Juke"と"My Babe"だ。最近でも2013年制作ジャッカス『クソジジイのアメリカ横断チン道中』でもジョニー・ノックスビル扮するジジイが女性専用ストリップクラブに向かうシーンで起用されていた。

軽快なサウンドは、このシーンにピッタリだった。もちろんこの後ストリップクラブで大暴れをやらかすのだが…。

さて、その"My Babe"に影響を与えた曲として知られるのが"This Train"だ。楽曲提供者は、当時チェス兄弟の右腕になっていたウィリー・ディクソンである。

ウィリーが参加し始めた2年前こそ、その才能に懐疑的だったが、この頃では、レンも反対の意は唱えなくなっていた。だが、肝心のLittleが首を縦に振らなかった。

「なあ、Little。ちょっとだけでいいんだよ。聴くだけでも聴いてくれよ。
いい曲なんだ。お前さんにピッタリなんだよ。
ダンサブルでさ、聴くだけでウキウキするのさ。
お前さんのハープならもっと良い曲になる。なあ、いいだろ?」
「あんたは俺が教会に行かないのを知ってるだろ?
俺は知ってるぜ。あんたがいう『その良い曲』ってのがゴスペルってことをな。
俺は、ゴスペルなんざ聴かないのさ。
俺はどうも神様、神様って拝みたおす連中は信用できないんだ。」
「おい、そりゃ、ないだろ。聴きもしないでさ。」
「まっ、とにかく、俺はお断りさ。」

Littleはさもウンザリした様子で手を振りながら
チェスのスタジオを出て行くのが常だった。

willie1こんな調子で半年が過ぎ、ようやくレコーディングにこぎつけたのは年が明けた55年の1月25日だった。だが、この日とて喜んで参加したわけではない。別の曲のついでに嫌々録音したというのが本当のところだ。

"My Babe"の録音の前に"Thunder Bird"を一曲やり、その後、違うグループがゴスペル曲"This Train"を含む2トラックを入れた。このアレンジが"My Babe"の大元となり、当初のワンコード・バージョンよりも遙かに軽快さが増した。

Littleは恋人に励まされながら、ようやく夜明け前にマスターテープを完成させた。苦労して出来上がった曲は今なお世界中で愛されている一曲となった。大ヒットした後のインタビューでは、Littleは、臆面もなくこんな言葉を残した。

「…もちろん、俺は毎週教会に通うような人間じゃないけれど、
心にはいつも神様がいらっしゃるんだ。」

chess1ヒットから遡ること半年余り前、54年はいろんなことがあった。サウス・ミシガン・アヴェニュー2120番地チェス本社の移転である。事務所の奥にはシンプルなスタジオが完備された。ここで録音された音源も少なからずあり、原始的ながら味わい深いサウンドになっている。※現在は博物館になっているチェス本社ビル

そのスタジオに置かれたレコーダーは、中古のオープンリール式で、シカゴの有名人フランクリン牧師から貰い受けたものだった。ちなみに彼の娘がアレサ・フランクリンである。

政治的には、人種隔離政策がしだいに緩和され、緩やかながら『自由』『平等』の理念が根付いていった時期でもある。音楽イベントにも『自由への闘争』といった副題が付けられるようになり、少しづつだが、60年代公民権運動へと続く布石がなされていた。※下画像参照
fight1
音楽的には、Littleは果敢に様々なことに挑戦している。クロマチックハープを多用したのもこの時期である。特に"Blue Light"では、4種のハープが使われている。

『長く低く続くオルガンのようなベントトーン、オーバーロード気味の甲高い反響音、これらを交互に吹きながらノートカウントを取る』―文字にするのは簡単だが、再現するのは大変難しい。"Blue Light"は、まさにブルースハーピストの面目躍如といった作品である。

Littleには当時からフォロワーと称する取り巻きが常に6~8人ほどいた。まわりを取り囲み、おべんちゃらを言い、サウンドの秘密を何とか探ろうと苦心惨憺していた。そこで考えだされたのが、『頭を左右に振る』という演奏方法である。だが、そんな彼らをLittleは軽蔑していた。

「頭を振りながら吹くなんざ、カッコ悪いだろ。
第一、頭が痛くなる。いいか、あんな真似すんなよ。」
とビリー・ボーイ・アーノルドに囁くことさえあった。

そして、もうひとつは、Little愛用の機材をそっくりそのまま使うことだった。Little Walterサウンドの秘密はブレスコントロールのはずだが、彼らはそうは考えなかった。むやみに同じ型のアンプやマイクを持ちたがり、Littleが現れると真っ先に機材を確かめるほどだった。


まさに名曲。

marshall1残念ながら、Littleが一体どんな機材を使っていたかは今では全くわからない。セッションにもギグの写真にもそれらしきものが写っていないからだ。唯一、信憑性のある証言といえば、レナードの息子マーシャルの言葉である。※画像はマーシャル

「ええ、Walterはアンプをいくつか持っていましたよ。でも、持ち運びに便利なように小さなものばかりでした。とにかく良いと評判を聞けば、手当たり次第に使ってみたというのが実際のところでしょう。

もちろん気に入ったものもあったでしょうが、結局、全て失ってしまったんです。盗まれたり、飲み代欲しさに質に入れたり、鳴らなくなったといっては河に投げ捨てたり、そのたびに違うアンプを使ってたんです。

要は、機材がなにであろうとLittle Walterサウンドは変わらなかったということなんです。
天才と呼ばれるゆえんでしょうね。」

tubeamp1デイブ・マイヤーズによると、やはりLittleはポータブルPAを好んで使っていたという。理由は簡単、これ一つで歌も演奏もできたからだ。特にロードでは、店の機材を使わざるを得なかったから、わざわざ自分のアンプを持ち込むような手間はかけなかった。

実際、当時の一般的なクラブのPAシステムは、チューブアンプと『弾丸型』のクリスタルマイクで構成されていて、そのどちらもハープサウンドに合っていた。

Littleの基準は強いて言うなら、空間全体に響き渡る音量が出せるか、アンプが信頼できるか、その2つしかなかった。逆にいえば、その条件に合えばどんなものでも構わなかった。

また、Littleは、バンドにピアノが入るのをひどく嫌った。マディとのセッションではオーティス・スパンが入っているが、それが気に入らず、よく文句を言った。理由は、『ピアノはハープサウンドを妨げる』からだったが、60年代以降はピアノを入れて演奏することが多くなっている。つまり、ピアノはハープの魅力を奪うほどのパワーがあったということだろう。

slide1他にもあまり知られていないが、Little Walterはマディのスライドギターを嫌っていた。マディがいかれたギターを掴むたびにギロリと睨みつけたものだが、バンドリーダーに面と向かってそんなことがいえるはずもなく、よくジミー・ロジャースに愚痴っていた。

「マディは、ただギターを引っ掻いてるだけじゃないか!
それに何だ。マディはいつも2本ギターを持ってくる。
1本はナチュラル・チューニング、もう1本がスライド用のオープンチューニング。
つまり、まともにチューニングできないってことさ。
俺は、あの『イン・ビトウィーンノート』って奴が我慢ならねえ…。
あれが聴こえるとやる気が失せるのさ。」

鋭敏な聴覚の持ち主であるLittleにとってフニャフニャしたスライドギターは
心地よいモノではなく、神経を逆なでるものだったのだろう。

しかし、54年の9月ごろにはそんな心配はすっかりなくなっていた。
というのもマディは、歌に専念し、ギターを持たなくなっていたからだ。
ギターは部屋に置きっぱなしという時代が数年続いた。

傍目から見れば、絶好調に見えたLittleの音楽生活だが、すでに終わりの始まりがスタートしていることを自覚していなかった。いや、あえて見ないふりをしていただけなのかもしれないが…。
usagi

漫画のルーツといわれる鳥獣戯画を特集したばかりですが、
今回は日本のアニメーションの未来についてです。

なにやらカプコンが完全フル3DCDに挑むという記事が
出ていました。アニメのCG化は世界的な流れですが、
なんだか違和感を感じるのは日本人だからでしょうか?

写真のように描くことを求めた西洋絵画が3DCDに進むのは
全く当たり前という気がしますが、明治時代前の日本絵画は
そんなことは求めていないのです。

絵は2次元でしかなく、それを3次元に変換する
なんてことは最初からしない。

絵と実物は違うので、最初からそんなことは求めないのです。
求めるとすれば、真実らしく見える外観から浮き上がる内面
とでもいうのでしょうか。

ですから、ことさら本物らしさを求めることはなかったのです。
それは『記号』というか『様式』といったものに変換されていったのです。

それは、西洋美術を学んで鑑賞の仕方を知っている私たちにも
ちゃんとわかっていたからこそ、アニメのCG化や3D化には消極的
だったのです。もちろんお金もなかったし、技術もなかったけれど、
それ以前に本気にやる気もなかったってのは真相でしょう。

本物みたいに見せたいなら実写にすればよいのです。
何も高いお金や時間を使って本物らしく見える偽物を作る
必要はない。絵は絵なんです。
ならば、2次元でしかできないものを追求すればいいことなんです。

ひところ盛況だった3DやCG映画がすっかり息をひそめたのは、
やっぱり虚が見えるからです。
いくら本物らしく見えても中身がありませんから、
どうしてもカラっぽさが見えてしまう。

それならまだ人間が入っている昔ながらの特撮者の方が
よほどマシというのはそういうことかもしれません。

では、日本のアニメ界はどういう方向に進むのでしょうか。
アメリカのようなCG大国にはなれませんし、
かといって欧州のようなアート系アニメ作品が出るとも思えません。

といって手書きアニメでは益々食えない人々が増えるだけです。
なんとかCGと手書きを上手に組み合わせて、かつ、現在のように、
監督一人の才能に依存するやり方ではなく、グループ体制で
作品を構築していく方式を取っていくことではないかと思うのです。

日本の漫画の質の高さは世界一ですが、アニメに関してはじり貧という
感じです。どうか食えるビジネスモデルを構築していってもらいたいものです。
kuroiso


クロイソカイメンって何だ?

冒頭の奇妙な画像、これって何でしょう?
海の岩に張り付く黒くてボコボコの表面、
この子こそクロイソカイメンなのです。

相模湾以南に生息する海綿動物の一種です。
岩盤や潮だまりで、画像のようにまったりと暮らしています。

海綿動物とは、動物なら当然持っているはずの
筋肉、神経、感覚細胞は全く持っておらず、
多細胞動物の中では最も下等とされています。

では、どんな生態なのでしょう。
海綿生物は、海水を一気に吸い込み、プランクトンだけを濾過します。
ところが、毒性プランクトンを吸い込んでしまうと、
濾過するフィルターまで毒化してしまいます。
結果的に海綿生物は体内に毒素を蓄積してしまうのです。

1981年、クロイソカイメンから採取された
毒が『オカダ酸』です。タナカさんではありません。

okadasan


この『オカダ酸』は発がん促進物質なのですが、
なぜかクロイソカイメンはガンにならない。
それは、『ハリコンドリンB1』という物質が
阻止しているからなのです。

このハリコンドリンB1に着目した抗がん剤が
ハラヴェン(一般名エリブリン)なのです。
東北大学大学院農学研究科・生物産業創成科学専攻 オカダ酸についてより


ハラヴェンって何だ?

haraven

現在、私が使っている抗がん剤がこれです。
4月からTS-1に代って、使用したゼローダが全く効かず、
たったひと月で見事な進行度をみせたわけです。

その進行速度の早いこと早いこと、ゼローダに代えて
わずか1週間であちこちに痛みが生じ、全摘した右胸の
植皮周辺の皮膚に異状が出ました。
いわゆる皮膚転移です。

さらには、3月末あたりから横になると
奇妙な咳が出るので気にしていたのですが、
CTで胸水がたまっていることが判明。

しかも4月末には右肺のほぼ半分までたまっていました。
なるほど水平姿勢になると咳がでるはずです。

この頃になると、普段の生活でも陸にいるのに、
まるで首まで水に浸かっている感じです。
ずっと息苦しいのです。

『ジョジョの奇妙な冒険』で水がないはずの
砂漠で溺れ死ぬというスタンドが出てきますが、
ちょうどあんな感じです。

泳ぎが苦手なので溺死だけは絶対に嫌なのに、
「陸で溺れ死にか…」なんて思ったものです。

その上、左胸に再発して転移と再発が同時進行する有様。
正直、死期が近いと感じた散々な4月でした。
というわけで4月は無理してでも色んな所に出かけました。

plus

動脈血酸素飽和度(SpO2)と脈拍を測るパルスオキシメーターで
測定すると、正常値は、96~99%で、
100%なんて出る人は稀だそうです。
この時の私の数値は、93~94%でしたから、
かなり悪化していたことがわかります。

効かない薬でもすぐに変更できないのが抗がん剤の辛いところ。
泣く泣く1ヶ月我慢して、次に選ばれたのが『ハラヴェン』です。
しかも日本生れ。

2010年には米国、2011年には欧州と日本で正式に承認され、
各医療機関で使用されるようになったのは、
昨年2014年からという新薬です。

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ハラヴェンの使用法

2週続けて、1週休薬。これを効果がある限り続けます。
これまでの点滴スタイルの抗がん剤と比べて、時間が短いのが特徴です。
最後の生理食塩水まで約1時間程度で終わるので、時間が有効に使えます。

ただし、なにせ新薬なので恐ろしく治療費が高いのです。
1回=44400円 約4万5千円です。
これを少なくとも1ヶ月に2回~3回受けなければなりません。

しかし、治療はこれだけではありません。
時にはエコー、時にはCT、時にはレントゲンと様々な検査もあります。
治療費が結構かかります。
こんな時に高額療養費制度が役に立ちます。
手続きしていて本当に良かったと思いました。

さて、肝心の効果ですが、今のところ良く効いています。
悪化するときは身体中が痛いのですが、治まるときは静かなものです。

かなりのしこりになっていた左胸もいつのまにやら
柔らかくなり、今ではすっかり小さくなりました。
皮膚転移も治まりましたし、何より胸水がすっかり無くなったのです。
これが有難かったですね。呼吸が楽になりましたからね。

ただ、これだけ効くのですから副作用もあります。
点滴後、3,4日後からかなり身体がしんどくなります。
この2日を乗り切ればなんとかなります。

他には、脱毛や身体のしびれなどがありますが、
生きていられるのですから本当に嬉しいことです。


メディシン・ハンターという職業

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ところで、主治医から聞いた話ですが、ハラヴェンの開発の裏には
『メディシン・ハンター』の存在があったというのです。

最近、日本人プラントハンターが話題になっていますが、
新薬開発にもこのような職業の方がいるのです。
中でもクリス・キラム氏が有名です。

メディシン・ハンターとは、漢方など植物を主体にした伝統的な薬に注目し、
新たな視点で新薬を開発するのが目的です。

つまりは、強い毒性を持つ動植物に注目し、解毒作用を知る土地の人たちに
使用方法を確認してから製薬会社や研究機関に売り込みに行くわけです。

売り込んでから実際に開発、販売に至るまでかなりの歳月がかかりますが、
クロイソカイメンも1981年の発見から新薬承認まで約30年かかっていますからね。
彼らにとっては『毒』こそが薬のタネなのです。
※画像はマカ
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現在、東京国立博物館で開催中なのが、
ご存知『国宝鳥獣戯画と高山寺』です。
京都では一足早く昨年の秋に開催され、
その時に足を運びました。

とにかく凄い人気で、京都国立博物館の外側にも
内側にも恐ろしいほどの人の数でした。

京都でもこの人気ですから、東京はもっとすごいはずです。
でも、その分、感激もひとしお。
実物をこの目で、しかも、甲乙丙丁すべての巻を拝見できるのですから
日本人なら一度は目に焼き付けておきたい逸品です。

鳥獣戯画には面白いエピソードがたくさんあります。
まだ手塚治虫先生がご存命の時に仏バンドデシネの巨匠メビウスに
鳥獣戯画の摸本を見せたところ、
「この作者はどこにいるんだ?会いたい。」と言ったそうな。
手塚先生は、ニヤリと笑い、800年くらい前の人だよと答えたそうです。

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さて、気になる鳥獣戯画ですが、今尚謎だらけ。
いつ、誰が、一体、どんな目的で制作したのかがわからない。

でも、だいたいのところは予測がつきます。
●まず、相当の『手練れ』であること。
●後白河法皇が制作依頼した『年中行事絵巻』の影響を受けていること。
●非公式のものであること(粗末な紙を使用している)
この3点です。

高山寺に所蔵されていることからお寺との関係が深いことがわかります。
ならば、僧です。
有難い仏様の御影がどんなお寺にもありますが、
それらを描くのは僧の仕事でした。
彼らは後に絵仏師と呼ばれたりするのですが、
それだけが仕事ではなくお経も読めば、修行もしたでしょう。

しかも高山寺は、他のお寺とちがってロハスというか、
自然をとても大切にしたお寺ですから動物を日常的に観察し、
描くことも大切な修行だったのでしょう。

とにかく筆に迷いがない。
動物に目がいきがちですが、注目していただきたいのは
植物や水面も書きなれた筆遣いです。
ちょっとやそっとではこの領域には到達しませんよ。

それにお寺ですから多くの修行僧がやってきます。
中には、年端もいかない少年僧や稚児などもいたでしょうから、
彼らを楽しませるために、偉いお坊さんが手慰みに
ちょっと『落書き』したのが発端だと考えられます。

観る人を意識していることがありありとわかります。
ですから、擬人化されたウサギとサルの水浴シーンは、
人間のモデルがいたかもしれません。

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すると、これがかなり『ウケた』。
そのうち日課のようにせがまれるようになり、
ストーリーらしきものに進化していったのでしょう。
娯楽のない時代に、まして山奥の寺ですから、
小坊主さんたちやお稚児さんたちには本当に宝物だったはずです。

どうせ描くなら流行りの後白河法皇お墨付きの『年中行事絵巻物』を
パロってしまおうと偉いお坊さまは思ったのかしら。

偉いお坊様ですから、宮中に招かれることもあったろうし、
制作されたばかりの後白河法皇自慢のコレクションを
じきじきに観る機会があったかもしれません。
いや、おそらくあったでしょう。
でなければ、あのようなシーンは描けないはずです。

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鳥獣戯画絵巻甲巻は絵巻物の特有のお約束がきっちり守られています。
●異時同図(同じ画面に時間差のあるシーンをぶちこむ)
●風景シーンは場面展開のお約束
●画面左側を観る人物(動物)がいれば、これも場面展開のお約束。

水浴シーンに続くのが、正月18日の夜に行われる
宮廷の行事『賭弓(のりゆみ)の儀』です。

夜に行われるため、わざわざ狐火を灯すという念の入り様です。
実際に宮中に行っていなければ描けないシーンなのです。
しかも勝敗がかかっていますから、カエルもウサギも弓作りに真剣です。
カエルがもつ弓は『竹』、ウサギのそれは『ススキ』です。
いやー芸が細かい!

次は宴会のシーン。賭弓の儀の後は宴会がつきもの。
これもちゃんと描かれています。
しかも遅刻したウサギまで描かれていますからね。

宮中のシーンはこれで終わりですが、
祭礼とは宮中の権威を下々に見せつける大切な行事ですから
まさか正月の賭弓で終わるはずはありません。

そこで断簡の登場です。何せもとは鼻紙に近い安物の半紙に
落書きしたものですから、いつのまにやら一人持ち帰り、
二人持ち帰り、あちらこちらに散らばったのでしょう。

断簡には、長尾摸本、東京国立博物館所蔵断簡、
ハワイに在る断簡、狩野探幽の摸本などがあります。

宮中三度節には射弓、相撲、騎射(競馬)があります。
鳥獣戯画甲巻には射弓の次に日に行われる賭弓が描かれています。
どちらも帝がご覧になるのは同じです。
というわけで断簡を加えると本来の絵巻は
細かく考えると5部作と考えられます。

●水浴シーン

●宮中行事
1.賭弓=正月18日

2.祭礼
sairei1


3.騎射(競馬)=賀茂競馬
keiba1


4.相撲=7月26日か、28日
sumo1


●流行の遊び
1.高跳び、首引き、双六
kubi1


2.草合わせ
kusa1


3.田楽踊り
dengaku


●法要、布施

●追われるサル

これらの様々なシーンがいつのまにやらバラバラになり、
いまのような形になったのではないでしょうか。

草合わせにはキツネとカエルが勝負し、負けたカエルが
道端で文字どおりひっくり返っています。
それを烏帽子をかぶった当時の警察業務を司った
検非違使のカエルと猫が検分しています。
kebishi


しかし、よく見ると検非違使の一人は職務を真面目にせず、
当時、京都の貴族も庶民も熱狂した田楽踊りに心を奪われています。
田楽踊りをするカエルたちは編木(びんざさら)と呼ばれる
景気の良い楽器を持ち、陵蘭笠(あやいがさ)に見立てた葉っぱをかぶっています。
なんと楽しげな光景でしょう。

その前にウサギに追われるサルがいますが、草合わせと関係が
あるかどうかは前後からはよくわかりません。

とはいえ、甲巻の値打ちが下がることはありません。
末永く愛されることでしょう。
ちなみに今春、京都の足袋屋さんSOUSOUが鳥獣戯画とコラボした
靴下を購入。あまりに可愛くて履けません。
鳥獣戯画展も今月で終了。この機会をお見逃しなく。
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免疫細胞療法って何?

近頃、よく耳にする『免疫細胞療法』。
一体どんなものなのでしょうか?

冒頭のイラストはそれを簡単に説明したものです。
簡単にいえば、人間が本来持っている免疫細胞(=natural killer細胞)の数を
人工的に培養し、がん細胞を倒せるくらいに増やして病気をやっつけましょう、
というものです。

考え方としてはまあ納得できるものです。
近頃はこれを看板にするクリニックも増加してきました。

末期がんの方、他に治療法が見つからない方、少しでも可能性を望む方などが
この療法に興味をお持ちになるのはごく当たり前のことですが、
気になるのは『本当に効果あるの?』です。

私の場合も同じです。
治療しても思ったような効果が出ず、このままで良いのか?と
自問自答していた昨年11月にこれを受けてみようという気になりました。

ネットで検索し、場所や料金、医師のプロフィールなどを検討し、
絞り込んだ末、実際に相談に行ったのは2件でした。


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高活性化NK細胞療法と主治医の反応

受診するにあたって、主治医にも一度相談してみました。
すると、こういった反応が返ってきました。

「…もちろん、患者さんのご意志を尊重しますから、
行くなとは言いませんが、あなたの場合は、あまり効果はないと思いますよ。」

はっきり釘を刺されました。
主治医はベテランですから、幾度となく似たような相談を受けて
おられ、その結果もご存知の上でこのような発言をされたのです。

私もこれに賭けていたわけではありませんが、
『もしかして…』の可能性を模索したのです。
溺れる者はわらをもつかむと言いますが、
それほどの気持ちでした。

さて、1件目は家から遠い上に、予約相談していたにもかかわらず、
散々待たせた挙句、やる気のない医師の態度とクリニック全体の
だれた雰囲気に入るなり嫌気がさしました。

次の2件目は比較的家から近く、車でわずか10分程度のところになり、
クリニックそのものも清潔で看護師、事務員、医師を含め、
よく教育されている感じがありました。

言い忘れましたが、この免疫細胞療法というのは保険適用外です。
ですから、かなり高額です。
しかも6回をワンクールと考え、『受診前に全納』がほとんどです。

1回が約25万円 × 6回 = 約150万円
これが平均です。
私が決めたクリニックは培養毎に支払う方式でしたので、
途中でやめることが可能な、割に良心的なところでした。


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NK細胞培養数

結果的に私はこのNK免疫細胞療法を計4回ほど行いました。

第1回 2014年12月2日 採血40㏄ 
2.4 × 10⁷細胞数= 2400万個 培養後 5.5 ×10⁹=55億個 投与日 12月19日
腫瘍マーカー 17 

第2回 2014年12月26日
4.2 × 10⁷=4200万個 培養後 5.0 × 10⁹=50億個 投与日2015年1月14日
腫瘍マーカー 19

第3回 2015年1月28日
3.2 × 10⁷=3200万個 培養後 5.0 × 10⁹=50億個 投与日2月13日
腫瘍マーカー 34

第4回 2月27日
5.6 × 10⁷=5600万個 培養後 4.9 × 10⁹=49億個 投与日3月17日
腫瘍マーカー 72

とまあ、こんな具合ですが、
免疫細胞療法を始める前の腫瘍マーカーの数値は32でしたから
初回の17という数値には驚きました。

主治医も思わず
「わー、腫瘍マーカーの数値が下がってる!」
と言うほどの結果が出ました。

その時の嬉しさは例えようもありませんでした。
ひょっとするとこのまま順調に進めば、首をはじめ
各所に転移した患部も消えるかも…なんて夢みたものでした。

ところが、そんな甘いものではないことがすぐにわかりました。
12月は痛みもなく順調だったのですが、年が明け、
1月に入ると徐々に身体中に痛みを感じるようになったのです。

「腫瘍マーカーの数値が上がっていたら、やめよう。」
と考えていましたが、2回目の数値の上昇は微かなものだったので
そのまま続けることにしました。
ところが、3回目以降はぐんぐん数値が上った為、
4回目でやめることにしました。

しかし、クリニック側は別の療法を提案してきました。
『樹状細胞療法』というものです。
これは今までのものに比べ倍も高額な治療法です。

約50万円ほどかかります。
「…これをして効果があるのですか?」
「…わかりません。」

50万円ものお金を払わせて、効果のほどはわからないとのたまうのです。
こんな商売ありますか?
あまりの展開に開いた口がふさがりませんでした。

他にも面白いエピソードがあります。
採血後にお金を支払い、病院から帰る際は医師、看護師、事務員総勢で
エレベーターまで見送るのが通例ですが、
治療をやめると決めた日に見送りに来たのは、看護師だけでした。
あまりの手の平の返しように思わず笑ってしまうほどでした。
『金の切れ目が縁の切れ目』とはよく言ったものです。

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なぜ保険適用にならないの?

免疫細胞療法が保険適用にならないのは結局効果がさほどないからです。
いくら培養してNK細胞の数が『億個』といっても
がん細胞と比べると少なすぎるのです。
1万の敵兵に100人の手勢で戦いに挑むようなものです。

さらに、培養後は、点滴で身体に戻すのですが、
本当にがん細胞と闘っているなら微熱程度ではすみませんし、
身体がだるくて仕方ないでしょう。
私の場合はそんなこともありませんでした。

主治医のこのことを話すと
「本当に効果があるのなら、既に保険適用になっているはずですよ。
そうでないから適用外なのです。」
と言っておられました。

ただ、もしこの療法を試さないでいたら、後悔していたかもしれません。
決して安いとはいえないお金を払って、勉強したようなものです。

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誰も知らなかった専門医の免疫療法に対する考え

NHKEテレ『サイエンスゼロ』2015年5月17日放送分
『登場!がん治療を変える新薬 免疫のブレーキを外せ』

がん専門医のほとんどが『免疫療法を眉唾ものと考えている』そうです。
番組もこの新薬『ニボルマブ』に関しては有効としていますが、
他の保険適用外の免疫療法に関しては効果が定かではないとしています。

免疫療法をまともに研究する医師は大変少なく、ようやく新薬として
承認された『ニボルマブ』にしても最初は研究に協力してくれる
製薬会社すらなかったといいます。
これは米国でも同じ、それほどキワモノ扱いされていたとは…

この番組を先に見ていれば、早まったことしなくてよかったのに…
と後悔しました。皆さん、世の中にはいろんなことを言って
近づいてくる人たちがたくさんいます。

中には「すぐに抗がん剤をやめろ。これを飲め。」と言って
よくわからない健康食品を売りつけてくる人もいます。
冷静に判断し、後悔しない治療を受けてくださいね。

では、次回。
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Bluesだけでなく現在のロック、ヒップホップ、R&Bまでのルーツを
遡ると、やはりこの人に行きつく
御大B.B.Kingである。

ここ数年、体調が悪いことを知っていたし、
今年に入ってからかなり危ないことも耳にしていたが、
とうとう来る時が来た。

B.B.King死去、享年89歳。
デビューから最期まで第一線で活躍し続けた偉人。
この人のことを一口で語るのは難しい。

初の来日は1971年。
実際に観た人からライブの模様を聞いたことがあった。
今から44年も前のことだ。

BBも若かった。50歳になっていなかったのだから…。
精悍で、油ギッシュだったBB。
今ではすっかり好々爺然としているBBもこの時は若かった。

なかなか英語が通じない日本人スタッフに向かって、
『キレた』そうな。

日本人ブルースマンらにとっては、
本場のチューニングやサウンドを吸収できる
またとない良い機会だった。

誰もがBBの手元を見つめ、一体どんなチューチングをするのか、
音量の加減はどうかなど、息をつめて見つめるなか、
BBはチューニングはスタッフ任せ、
アンプのサウンドは全て『最大』に設定したという。
全然参考にならんかったというエピソードである。

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実際にBBを見たのは1978年4月にAlbert Kingと一緒に来日した時のことだった。
この時の興奮は忘れられない。
東京・大阪の二大都市だけということもあって、
この日の厚生年金会館大ホールは西日本地区の
ブルースファンが数多く集まった。

もちろんこの二人はその後も一緒に来日するのだが、
当時は「もうこんなことはあるまい」と皆が思い込んでいたから、
思い入れもひとしおだったように思う。

だってね、BBもアルバートも立って演奏するのよ。
そして、各々ソロパートが終わり、アンコールに入って、
いよいよ二人の競演が始まった。

アルバートはご存知のフライングギター、
BBも愛用のルシール、アルバートは左利きだったので、
二人のギターが見事に交差した時には
身体中に鳥肌が立った。

本当に至福の時だった。
こんなものを見せられてはアンコールの嵐がやむはずもなく、
観客は誰も帰ろうとしない。

終いには会場のライトが付き、アナウンスも
「本公演はこれをもって終了いたしました。
速やかにお帰り下さい。」と
何度も何度も流れても誰も帰らない。

私の周辺には広島から来た人、福岡から来た人、
バンドをやっている人などが大勢いて、
この日がどれほどよかったことを語り合ったのだった。
たぶん私はこのライブで最年少だったと思うが
今もよく覚えている。

ありがとうBB。
ボビーと一緒にまた歌ってね。
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故杉浦日向子原作『百日紅(さるすべり)』がアニメ化された。
監督は、クレヨンしんちゃん『モーレツ大人帝国の逆襲』、
『河童のクゥ』『カラフル』などを手掛けた名監督原恵一氏。

原監督ということで楽しみにしていたが、
鑑賞後の感想は、
『漫画は超えられない…』
に尽きる。

『百日紅』はご存知葛飾北斎とその娘お栄を中心に描かれた
杉浦日向子の代表作のひとつだが、
原監督はどうも漫画とアニメの違いを意識していなかったようだ。

漫画とアニメの最大の違いは『間(ま)』である。
漫画のひとつひとつのコマには、とても深い意味がある。
それは一瞬だったり、永遠だったり、
時には、あの世とこの世をつなぐことすらある。
杉浦日向子という漫画家はこの『間』を見事に演出した現代の絵師だった。

しかしながら、残念ながらアニメにはその『間』がなかった。
同系列で幾つかのエピソードが語られるが、平板に流れた感は否めない。
(もちろんアニメならではの秀逸な演出があったシーンも幾つかあったが…)

アニメは北斎一家の一員としてのお栄、人間お栄に焦点を当ててはいるが、
絵師としてのお栄にスポットが当たっていない。
絵師お栄に迫ることで人間お栄も際立ったはずだが、
いかんせん中途半端に終わっている。
これは父親北斎像にもあてはまる。

原作を知らない方なら及第点かもしれないが、全体の構成が甘いため、
もし私が原作を知らなかったとしても『合格点』は出せなかったと思う。
厳しいようだが、アニメにしたことすら
疑問を感じる作品になってしまったのは残念でならない。
大好きな原監督だけに落胆もひとしおだった。

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左からMuddy Waters ,ピアノOtis Spann, ハープHenry Strong, ドラムElgin Evans, ギターJimmy Rogers (マラカス不詳)1954年初頭の写真 シカゴにて

「…何だって?誰が死んだって?
聞こえねえよ、もっとはっきり喋ってくれ。」
受話器を持ったままLittle Walterは大声を張り上げた。

「泣くんじゃねえ!泣くか、喋るかどっちかにしろよ、ジョディ。
一体何が起こったんだよ!
ポットに何があったんだよ!」

電話の向こうのジョディ・ウィリアムズはただ泣きじゃくるばかりで
さっぱり要領を得なかったが、何やら容易ならざる事態であることは
受話器を通してでもよくわかった。

とにかく状況が知りたかったLittleは
「…ちきしょうめ!」
と受話器を叩きつけ、すぐさまサウスグリーン・アベニューに向けて車を飛ばした。
1954年6月に入ったばかりの蒸し暑い夜のことだった。※画像はジョディ・ウィリアムズ
「ポット、死ぬなよ。」
Walterは祈るようにつぶやいた。

jody1…あいつのハープは俺の次にシカゴ一だったぜ。
死ぬなよ、俺が行くまで死ぬなよ。
何せお前という男を作り上げたのは俺なんだから…。
俺があいつに全てを教えたんだから…。

俺はまだ、あいつがほんの小僧っこの時から面倒をみてやってたんだ。
あの頃のあいつはホントにホントにチビだったな。
俺たち皆であいつのことを『ポット』って呼んで可愛がったよな。
マディの奴は俺の後継者ができたって喜んでいたっけな…。

現場に着くと、あたりは野次馬でいっぱいだった。
Walterは夢中でジョディを探した。
そして、縁石に座り込み、放心状態でうなだれているジョディを見つけた。

Littleは、そっと彼に近づき肩に手を置いた。
「…おい、大丈夫か?」
ギョッとして上げた顔は恐怖で青黒く変わっていたが、
Littleだとわかると安心したのか、また泣き始めた。
「…Walter、ポットは、ポットは…。」

「Walter、そっとしてやってくれ。」
そう、声を掛けてきたのはマディだった。
「あんた、いたのか?」
Littleが驚くのも無理はない。
マディの上半身は朱に染まり、シャツは破れ、見るも無残な有様だった。

「ああ、ジョディは現場を見ちゃいないのさ。
クローゼットにカギを掛けて隠れていたからな。
危なかったのは俺の方だったぜ。
俺も殺られそうになったからな。
寸でのところで免れたのさ。」
「…でっ、ポットは?」
「…あいつは、肺を刺されてな。それが致命傷だったんだ。
肺に穴が空いちまってな。そこらじゅうの赤い血はみんなポットのもんだ。
病院に運ぶつもりでバックシートにようやく乗せたんだが、
途中でで死んじまったのさ。」

Littleはマディにタバコを一本差しだし、火をつけた。
「…あんた、よくやったな。」
マディは黙って、タバコをくゆらせ、立ち上る紫煙を見つめたままだった。
「…あいつはツカえる奴だったよ。」

ヘンリー”ポット”ストロング
嫉妬に狂った恋人にナイフで刺され死亡。
享年25歳
生きて入れば、Walterに次ぐハーピストになっていただろう。
ハンサムで、気立てもよく、なにより才能があった。

murder1ポットが俺たちの前に姿を現したのは、去年のことだった。とかく時間にルーズなビッグ・ウォルターが代わりに寄こしてきたのが、ポットだった。

ポットの存在を一番喜んでいたのはマディだった。理由は彼がWalterの愛弟子だったからだ。

マディは、時としてWalterと一緒に演っているかのような錯覚にすら陥った。それほどポットはLittleの教えを忠実に守り、演奏していたからだ。

「…ッで、何があったんだ?
まっ、あんたのその面と血だらけのシャツを見りゃだいたい想像はつくがな。」

「ファニタさ、ポットの奴、よせばいいのに他の女にちょっかい出しちまってな。
それを知ったファニタが怒り狂って、アパートに乗り込んできたのさ。
ポットとジョディは一緒に部屋を借りてたから、とばっちりを受けたのは
ジョディと同じアパートに住んでたこの俺さ。」

knife1ポットがなだめようとするもファニタの怒りは静まるどころか、火に油を注ぐ始末だった。キッチンのナイフが目に入った途端、怒りは頂点に達し、ファニタはポットを刺した。

ポットも刺されるとは思っていなかっただけに衝撃が強かった。嫉妬に狂った女は恐ろしい。あまりの恐怖にジョディは寝室にカギをかけ、事態が収まるまで出てこなかった。
騒ぎを聞きつけたマディが割って入ったが、そのせいでマディもファニタから追われるはめになった。シャツは切られ、一歩間違えればポットと同じ運命を辿ったかもしれなかった。

ポットは、流れる血を押さえながらアパートから抜け出そうとしたが、ファニタの裏をかこうと再びアパートに戻り、裏口から逃げることにした。だが、これが失敗だった。裏口には血のついたナイフを持ったファニタがものすごい形相で立っていた。ファニタは逃げ惑うポットを執拗に追いつめ何度も何度もナイフを振り上げるのだった。

ようやく表に出ることができたジョディとマディが見たのは、文字どおり血の海の中で息も絶え絶えのポットの姿だった。二人は、ポットをマディの車のバックシートに押し込み、病院に向けて走り出した。

マディはずっとポットに声を掛け続け、それに応えるポットだったが、しだいに声が小さくなり、ようやく病院に着いた時にはすでに事切れていた。マディもマディの車も血まみれだった。
「…アパートの部屋から表までずっと血の跡が続いてたんだ…。」

ファニタはその場ですぐに殺人罪で逮捕、起訴されたが、『正当防衛』だとしらを切りとおし、結局無罪放免となった。これではポットも浮かばれまい。ひどい裁判だった。



Last Nightは親友ヘンリー"ポット"ストロングを偲んで作られたと言われている。
それにしても女性は怖い。

Last Night 意訳
夕べ、一番のダチを亡くしちまった。
もう、お前はいねえ。俺を残して逝っちまった。
哀しくて仕方ねえ。
もう朝だ。お前のことで頭がいっぱいだぜ。
お前のことで頭がいっぱいなんだぜ。
何とか言ってくれよ、なあ。
俺たち、どうなっちまうのかな。

明日が来るまで俺はお前を待ってるぜ。
毎日、新しい日がやってくる。
俺はお前を朝になるまで待つぜ。
毎日、何かが起きるんだ。
お前が好きなんだ。なあ、お前。
死ぬほど辛いぜ。