土佐「武田勝頼落人伝説」
とはなんなのか?
また、武田勝頼土佐の会の結成についても初期活動含め
少し解説します。昨日、書いたことだし。
1)仁淀川町に残る「武田勝頼落人伝説」
名だたる戦国武将・武田信玄の四男であり、甲斐武田家20代当主の「武田勝頼」は、定説では天正10年(西暦1582年)天目山で自害したとされている。しかし、仁淀川町に残る影武者説によると、「武田勝頼は織田軍に敗走後、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの土佐に落ちのび、その後、この大崎村川井(現仁淀川町大崎)に入り、名前を「大崎玄蕃(おおさきげんば)」と変名し、この地で25年ほど活躍し、慶長14年(西暦1609年)8月25日64歳で逝去し、鳴玉神社に葬られる」とあある。(仁淀川町及び佐川町に残る武田家系図に記録)
勝頼公の墓所がある仁淀川町大崎の鳴玉神社。この建物の背後にある墓所が。。。。
武田家系図は複数残されているらしいが、これは仁淀川町に残され、ほかにも佐川町にもひそかにあるとか。
また、「武田勝頼」が建立したとされる仁淀川町大崎にある大崎八幡宮には、高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画に描かれている紋所と同様の花菱家紋入り手鏡が奉納されています。その他にも、周辺市町村も含め、「武田勝頼」の親族の墓所や子孫一族に関する史跡等が現在も複数残されているのだ。
これがその手鏡。この手鏡の花菱模様が勝頼肖像画の書かれているようである。
2)地域芸能と「武田勝頼土佐の会」の発足
仁淀川町は高知県内でも特に過疎化、高齢化が進む中山間の地域であり、「武田勝頼」の変名である「大崎玄蕃」にちなみ、夏祭りなどで住民に永く親しまれてきた「玄蕃踊り」も、最近特に組織のメンバーの高齢化が進み、その存続が危機的な状況に陥っている。
また、この大崎地区は仁淀川町の中心地であるにもかかわらず賑わいに乏しく、特に目立った観光施設等も無く、県内外の観光客も素通りしてしまい、地域の活性化には苦慮している。
「玄蕃まつり」は仁淀川町大崎地区の恒例の夏祭りだった。
これは昭和後半の画像。中央の花台のまわりで「玄蕃おどり」を行ったいたのである。主役はやはり「げんばさま」こと武田勝頼である。
こうしたことから平成元年には、若者の住みよい活気ある町づくりを目的として「玄蕃太鼓振興会」が設立されました。この会では、オリジナル曲「玄蕃」を創作し、手踊りの単調な和太鼓のリズムに戦乱を生き延びた落人を偲ぶとともに、地域づくりの一端を担うべく各種イベントに参加して、未来を見つめた迫力ある太鼓演奏活動を行っており、こうした活動は現在も継続している。
玄蕃太鼓さんの音は素晴らしい。
なんども感動で涙が出たのである私。
「武田勝頼土佐の会」は、玄蕃太鼓振興会メンバーを中心として、この地域をなんとか盛り上げ、「武田勝頼」に由来する史跡や玄蕃踊り、玄蕃太鼓等の地域芸能を活かし、新たな観光資源としての地域おこしや、観光振興につなげていきたいとの思いから、活動が始まったのである。(2008年10月結成)
実は、活動の中で、仁淀川町大崎地区の住民による玄蕃踊り(玄蕃踊りの象徴である「花台」 S57当時)は数回、復活し、花台も日の目を見たのである。
3)武田勝頼没後400年祭イベント
今後の活動に関する検討会では、年間を通じて住民参加型の楽しく、インパクトのある活動をしようと話しあったのである。
まず、武田勝頼落人伝説(武田家系図)では、2009年8月に「武田勝頼」が没後400年を迎えることから、勝頼ゆかりの地を訪ね歩く「史跡探訪ツアー」をはじめ、この地で伝えられてきた「玄蕃踊り」(踊りの象徴である「花台」も復活!)や「玄蕃太鼓」を中心に、周辺地域の民俗芸能団体にもご参加いただきながら、「武田勝頼没後400年祭イベント」として実施することを企画検討し、夏の夜祭として開催することとした。
さらに、PRや啓発のためイベントとして「武田勝頼」をより広く知っていただくために、2009年2月14日には「かつよりくん弁当創作コンテスト」を開催した。これには町内外の住民による10種類のアイデア満載のお弁当がエントリーされ、来場者が審査員となって、舌鼓を打ちながら楽しく審査を行いました。これらのお弁当は、今後、町内イベントや史跡探訪ツアーなどで参加者等に提供していく予定です。まずは、この春の「ひょうたん桜」等のお花見を機会に、ネット販売や史跡探訪ツアー参加者にご提供させていただいたのである。
4)さらなる歴史観光名所としての今後の活動
「武田勝頼没後400年祭イベント」以後は、仁淀川流域の各地域に引き継がれている「太鼓・おどり」関係団体と連携した「手踊りサミット」(発表の場)を今年10月に実施するよう準備を進めた。これは周辺の地域芸能をもつ団体等と協力して親交を深め、互いの結びつきを強めながら今後の活動につなげていくためのもので、実際、行ったのである。割愛しますが。
今後さらに「武田勝頼」に関する調査研究を進めながら、観光ツアーの受入や地域特産物の開発・販売、宿泊施設等との連携など進めることで、大崎地区を県内の新たな観光の拠点として、新たな歴史的資源を生かした地域の活性化を目指すことになったのである。
とまあ、活動初期はこんな感じであった。
その後、山梨との交流などが始まり、高知県観光振興にもつながっていくのである。
あれから8年ほど経過した。
現在はやや活動は停滞気味であるが、中だるみもやむをえない。
初期の気持ちにもどり、改めてこの歴史ミステリーに深みを与えよう。
SEE YOU!