野中兼山ツアー 春野2 | がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

がんばる地上の星たち!高知と松山のまんなか・仁淀川町

土佐の山間・仁淀川町(によどがわちょう)の(元)地域支援企画員の日記!

前回(昨日)のブログの続きであります。

昨日のブログ → 野中兼山ツアー 春野1

 

野中兼山の歴史農業建造物を探して春野町の奥深く?に来ています。

とにかく道案内してくれたおばちゃんは、この用水路に沿ってとにかく行けと言われた。

 

しかし、けっこう狭いぞ。

 

 

 

さっき見た変なナナメ建造物が見えて来た。

 

 

そうか、これは太陽光発電パネルなのだ!

 

 

 

 

巨大な土台上に設置された巨大パネル!

すごいものを見たものである。

 

 

さて、

 

なんとなく、町並みというかちょっと雰囲気の違う場所に来たなあと思っていたら、どうやら、目的地に着いたようであった。

資料で見たことがある水門が目の前に見えた!

 

 

 

着いたぞ!

ここが「新川の落とし」

である。

 

落差のある用水路と城下までの輸送河川である新川川を繋ぐ「落とし」である。ここらあたりは、当時、物資輸送の拠点として相当に栄えたという。私がいた仁淀川町なんかの基本物資(木材や炭、茶、コウゾ・ミツマタ、その他)なんぞは、大量に仁淀川を船で下り、仁淀川からこの用水路に入り、この「落とし」を経て運ばれる。

 

詳しい看板あった。どうやら最近できたものらしい。

 

 

 

 

なんだ、先日お会いした野中兼山生誕400年イベント主催者の会が設置したものであるのか。

 

 

 

まわりには、なんとなく昔、商家らしい風情の旧家があるある。

 

 

 

 

 

この「新川の落とし」の横には「春野神社」という兼山を祀った神社がある。

鎮守の森である。

 

落とし自体はいわば、落差工であり、船が移動するために斜路的な水路になっている。水門は一気に水を流すためにものかな。現代は鋼製のゲートになっているが。

ゲート部には橋があり、これまた歴史がありそうである。眼鏡橋だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下流川に回ってみるとこんな状況である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここが江戸時代、どんなに賑わったのだろうか。

野中兼山の土木事業の工夫と戦略的な県内整備、それは産業振興上の必須事項であったのだろう。

 

小さな森の神社に行ってみました。

鳥居が見える、神社は小さいながらも威厳がある。

野中兼山の偉業を称える碑がでーーんとあるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

土佐発展の礎である。

地域の誇り。

 

この巨木が印象的です。

 

このブログ、もうちょっと続くのだ。

 

後から考えてみたら、このあたりは西からよく通った場所だった。なんとなく変な旧来の地形と言うか雰囲気が違うと以前から思っていたが、ここが「新川の落とし」だったとはと帰る間際に思った次第であった。

次は迷わずに来れそうだ。

 

 

 

SEE YOU!