建造数が最も多い仁淀川町のことは
以前に書いたが、
その仁淀川町の中でも最も多いのが
旧池川町なのである。
なぜか!?
答えは意外と単純なのかもしれない。
それは、今で言う国道が旧池川町を通っていたからだ。
それを松山街道と呼ぶ!
かつて国交は、伊予と土佐でもやはり国が違うの藩政時代の
こと、その国境の集落、この用居地区には関所跡もあり、
人などの行き来は制限されただろう。
しかし、この大工小集団である技術者たちは土佐の山間集落の
招きよってか、建造数の数から見れば何十年にわたってまさに
大車輪の活躍
をしたのではないだろうか?この街道の役目は大きい。
関連して、この前のブログに書いたが、
周防大島の東和町の資料によれば、土佐での建造数は
(以下、旧町村名で書きます)
本山町 2
土佐町 3
大川村 6
吾北村 22
池川町 44(現仁淀川町)
吾川村 31(現仁淀川町)
仁淀村 33(現に淀川町)
佐川町 5
東津野村 10(現津野町)
梼原町 13
十和村 2(現四万十町)
土佐山田町 1(現香美市)
土佐山村 1(現高知市)
鏡村 1(現高知市)
本川村 3(現いの町)
伊野町 1(現いの町)
越知町 8
葉山村 1(現津野町)
大野見村 1(中土佐町)
となっており、この江戸末期から明治にかけては
まさに仁淀川町内で
ひっぱりだこだ。
今回はその仁淀川町内の旧池川町の
用居地区に現存する
大師堂を紹介するのだ。
ひっそりとたたずむ、大師堂。
建立は、安政7年(1860年)というから、今から
140年ほど昔か。
旧池川町史には、記録があり、棟札から大工は長州は浅次、
工匠(彫刻など)は大島西方村の友助となっている。
友助とは、吉門友助というあの、大野地区の河嶋山神社を
建てたという工匠だ!その雰囲気は十分にわかる気がする。
これが仁淀川町大野地区の河嶋山神社 ↓ どうです?
これも迫力と緻密さの際立つ神社です。
この用居地区からも比較的近い場所にある。
そして
ここ、大師堂もすごい!
もはや、芸術品と言っていいんじゃないか?
彼ら、大工の執念とも言える、この大師堂のできばえ。
とにかく、細工が緻密、彫刻の素晴らしさが目を引く!
ぽつんとあるのだ。
この価値は一体。。。。。。
木々はこのあたりの木を伐採し
杣、木挽き、役割に沿って製材され、そしてそのくらいの期間を
かけて建てられるのか。。。。
地域は過疎高齢化となりつつも、
この長州大工の建造物は過疎など関係なく、ここにそびえる!
ここから伊予国境までは
車でも15分くらいだ。
かつての街道の往来も多かったのだろうか、
ここで一休みの旅人もこの大師堂の姿に感動したに
違いないよ、きっと。
ハート形ってのが、不思議☆ ↑ (ノ´▽`)ノ
私がここを訪問した時は
薊(あざみ)の花が咲いていた。
仁淀川町用居地区は素晴らしい。。。。
松山街道沿いの集落に歴史あり。
SEE YOU!