diary_20230801_日記(vol.4)、イベントのメモ、高麗博物館、映像作品、キガリ | 都のブログ

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空の写真(日記No.4)

(20230801に書いた日記)

 

イベントで途中休憩があったように、ちょっと頭がパンパンになり纏め日記も休憩を挟みました。

そういえば全然関係ないですが、『悪霊狩猟団カウンターズ2』が日本語字幕も同時配信ですね、嬉しい!
メンバー全員好き。
登場シーン格好いい。
そしてカン・ギヨン氏、恐すぎる、別人。
(凄い絞ってきましたよね?)

脱線してすみません。纏め日記(イベント自体は2023/07/31)のつづきです。

【日記_vol.4】
後半は、徐京植さん(高麗博物館理事)の、ジョン・ヨンドゥさんの作品映像を紹介を主としたお話でした。
なんだか大学の授業を受けているようでした。

『Kigali, in to the night』という作品の上映。
分断を図られたことによる差別意識の暴発で大量虐殺が起きてしまったというルワンダの、その後の街の様子を、淡々と道を走るようにして映した作品でした。

また、構えずに見ようと試みて。
私は、なんとなく田舎の夜道を思い出していました。

街灯が少なく周りは葡萄園や桃畑で、時折道路を車が走り抜けて、道端からは虫の音が湧いている。
何も考えなければ、ひっそりとした田舎道で、通り過ぎる人は恐いようで親しいようで。
不安な心持ちで歩くと、輪郭すら捉えられない灯りの少ない状況が恐くて、後ろを振り返らずにはいられずに、物音にはすぐ抵抗できるようにと身構えて…
鼻歌を歌えば高く星が輝くのに、ふと不安になると警戒と緊張とで気が張り詰めて走り出したくなる闇。

作品の場面は、日中から夕方になり夜へと移り、雷が鳴り響き閃光が走る夜の街を通行人を映していました。
淡々と流れるありふれた日常が、人々の表情が、映っていたように思います。
虐殺があった場所なのだという、不安を宿したような、暗く静かな闇は、そこにあるのか、見ている私の脳裏にるのかは解りませんでした。

その後、この作品のメイキング映像も拝見しました。
監督の周りに集まり賑やかに話す子どもたちや、明るく歌い踊る市民の様子が映っていました。
とても開放的に、素直に感情を揺らし、屈託なく笑う人々の姿が見えました。

どこにでもある、一つの街。
ありふれた住人。
暴走することを食い止めなければ、虐殺の芽は、ありふれた私たちの差別意識の中にあるのだということだろうと思います。

その街はいま、中央アフリカで最も治安が良いと言われているそうです。
事件を繰り返すまいとして、厳戒な監視社会になったとか。

映像紹介を主とした理由を、冒頭で徐京植さんが説明してくれていました。
うろ覚えで要約を纏めると。
事柄を伝えようとするときに、人は報道は教科書は、その規模を数値にして説明する。
では、歴史を知ろうとしたときに、数値に置き換えられたその事件の情報に、人は実感を持つだろうか? と。
物事を知ろうとしたときに、深刻さや重大さを受け止め実感として理解するために必要なのは、共感力だと。
その共感力、そして想像力が、出来事を実感として受け止めるために、残虐な事態を繰り返さない、虐殺を終わらせるために必要だと。

差別意識は無くなっておらず、むしろ近年は歴史をなかったことにしようとする動きが顕著になっている。
事態と向き合い反省し、差別感情を拭うという、虐殺を終わらせる努力を、日本社会は私たちはまだ出来ていない、虐殺は終わっていないのではないかと。

具体的な何かを写すでなく、数値で語るでなく、アートは共感を呼ぶことのできる、伝承の手段だろうというお話に、芸術家たちの生み出した作品を思いました。

伝えることが必要だと考えつつも、公演などで説明的に話すことに抵抗を感じることがあると話されていたのも、印象的でした。
悍ましいその事件が、語るほどに、どこか形式的なものになってしまう感覚があると。

(つづく)