都のブログ

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マーカーとシャーペンを使い、プンムルの衣装の赤と白と黄色の花束のような帽子をイメージして描いたイラスト、生い茂る背の高い草と雨上がりの露をイメージしたイラスト、水色の空と複数の浮雲のある風景をイメージして描いたイラストの、3つのイラストを一つの画面に合成した抽象イラストのコラージュです。

涼しくて柔らかい風が吹いていて。とても心地よくて。少し疲れていたこともあって、ときどきボーっとしながらいた。

 

 

 

追悼式に行って来ました。

 

私は情報を追わない癖があるので、考え事をしながら電車に乗って、そういえば方向音痴の癖に会場までの道を知らずにどうしようか… と思っていたら、駅のホームに知人の姿があって、思わず声を掛けてしまい、ご一緒されていた皆さんの後を付いて会場に向かいました。お礼を言いそびれました。ごめんなさい。

 

暑いと思っていたけれど、いつの間に秋なのか涼しい風が吹いていて。

秋というより春のような雲が幾つも浮いて照射を遮り、柔らかい水色の晴天が頭上にありました。足元は、そうだ河原だし雨上がりなので、濡れた雑草と泥なのでした。たまたま前に履いていたブーツの底が削れて傾いて浸水するからと買い替えた靴紐っぽいデザインの長靴を履いて行ったので、何も考えずにいたのに、丁度よくて助かりました。足元にはコオロギが撥ねて、うっかり踏みそうで、会場の両脇は、刈られずに高く伸びた草が揺れていて…

 

 

学習会や博物館で見た絵は、サツマイモ畑だったでしょうか、大きな葉が茂る中だったり、あの頃雑草は刈られていたのでしょうか河岸は砂利や土だったろうかと思い出したり、いまはガードレールが伸びるあたりに、木の板が柵として並べられていたような… うろ覚えのそれらを思い出しながらいました。

 

人のいない方へ逃げて、川辺に追いやられてしまったのだろうかと想像しました。その頃も涼やかな風が通りを駆け抜けて、澄んだ空や空気がそこに在ったはずでした。

 

震災後に火災が広がり、その炎の明りと立ち込める煙とで、子どもたちが描いた記憶画から推測されるように、暗闇と炎の赤だけの世界になってしまった時間があったようです… 関東地区の一部で下弦の半月が人々の印象に留まらなかったのは、この炎のためではないかと、金正則さんも話されていましたね。

 

しかしその翌日以降、炎は消えた後で、空が日常を取り戻した後も、惨劇はつづいてしまった。

(ペンニョンの方が説明なさっていましたが、震災が関係したとは考えにくい条件下でも虐殺は起きてしまっていたそうです)(1936年など)

 

説明が通用しない殺人鬼と化した者に追い回され昼夜問わず命を狙われ、平穏を失い、市街から離れた先… 

 

この川辺で最期を迎えることになってしまった方々の、無念はいまも、癒えぬままではないだろうかと考えました。追悼を呼び掛け動く方々の声を、耳を澄まして聞いておられるのだろうなと想像しました。

 

 

最近の私は、どのようにしたらこの人間の愚かな振る舞いを止められるだろうかと考えながら、向けられる悪意に対して説くのではなく、見限る思いでの、怒りが強くなっている自覚がありました。誤りであることは明白なのに、それを省みることもせずに同じ過ちを繰り返そうとするこの日本の動きに、何をしているんだという怒りだけが、大きくなっていました。

 

だから、その川岸に立って、揺れている背高く生い茂った雑草の緑を見ていて、騒音をのみ込んでいく空を見上げて、橋の脚に映る水面の光を知って… その場面を想像しながら、その恐怖と、危害を加えた私たちの愚かさに怯えながらも、目の前にある柔らかい河川敷の光景に包まれている不思議を思っていました。

 

私は、殺された方々を、悼む気持ちを忘れていました。そのことに、気付かされました。

 

 

それから、その風景を見ていて、ワークショップという名で開催されていた私にとっての学びの場であった講演を思い出していました。なんとなくでしか認識していなかったことを少しでも知ろうと、虐殺から100年の機に行われた講演で、徐京植さんのお話を聞いたのでした。そして、あの一瞬を得たのでした。

私には、何が出来ますかね。

 

 

黄色と赤と白と青と、原色を並べた鮮やかな衣装で、白が綺麗だからか何故か印象は整然としていて、賑やかに打ち鳴らされる音楽が、私の小さな葛藤を他所に、前を向く力や人間の営みやその活力を示し轟かせていて、後ろ向きな考えや卑屈な愚痴をかき消すようでした。

 

そう、涼しい風が吹いていて。柔らかい空気がそこにあって。

 

そういえば防衛省前でお声がけして以来の半年以上振りに、ハンガーストライキという行動で警鐘を鳴らされた氏に、お会いして話せました。

 

私の、大事なことは話さずに他愛もないことを話してしまう癖は健在で、たくさんの人を動かしたであろうたいへんな行動を讃えることを忘れ、少しぼーっと思考を混沌とさせながら最近の自分の愚痴を話したような… 何をしているんでしょうか私は。

 

そういえば、隣にいた友人に、以前より柔らかい印象が纏っていて。でもそのことも伝え忘れました。花弁がよく似合っていました。

 

そうだ、常々気に懸けている問題に関して、問いかけてくれる方がいて、お言葉に甘えてご紹介いただいたままに、区議さんに少しお話をしたのでした。というかまた、現状に納得のいかない思いを、ついぶつけるような言い方になってしまって、ごめんなさい。後日あらためてお話できたらと思います。

 

 

さあ帰ろうと、もう一度辺りに伸びた背の高い雑草と川岸とをぐるっと見渡して、穏やかな緑を眺めました。やはり涼しくやわらかな風が吹いていました。

 

道路に向かって歩いていると、見知らぬご老人がチラシのようなものを手渡してくれて、尋ねると「遊び唄だよー」とのことでした。A4用紙にゴシック体でみっちりと記された文章は、戦時中・戦後の時代を映した遊び唄を物語のように書き綴った一文でした。

 

読み終えてお礼を言おうとしたのですが、もう人ごみに紛れてしまったのか、お姿が見えず、というかお顔も解らないままだったので探せず。

 

ありがとうございました。人間の営みを支えてきたのは、“想い” なのだろうかな、と教わる場面でした。

焼き菓子のチラシをご紹介すると言いながら、まだ投稿できていなくてごめんなさい。

 

以前の日記で書き間違えたな、と思う箇所あり。書き直せばいいんですけど、読み返すと私が忘れていた当然のことが書かれていて、うーん… と迷ってそのまま残すことにしました。

 

日記では、「政府野党議員という立場で且つ現状に疑問を抱いている人がもしおらえるのならば」と書いたのですが、そうです、本当は「政府与党議員」と書きたかったのでした。

 

野党議員は国会の状況を危惧して真摯に取り組んできた人であれば、途方も無さをずっと感じているのだろうな、という当たり前のことを思い出し、書き損じによって自分がこのところどういう考えを持ってきたのかを再確認したのでした。

 

私は国政を見ていて、議員らは組織に属する故に環境的に思考が同じ方向を見るけれど、市民のひとり一人がそうであるように、考え方や情報との向き合い方は、議員個人によりかなりの差があるのだと思うようになりました。

 

しかし法案採択になれば議員は党の方針に従うことになりますし、現状まで事態を変えることができずにきたのですから、与党議員に期待をかけることは難しいとも思っています。

 

それでも、退席して採択を棄権された議員がおられましたね… 稀有な方だと思います。

 

実のことろある問題を追って情報を得ようと動いたことがあり、その関係で野党議員に対して不振を思う機会もあったので、より、私の捉えとして党派の垣根は取り払ってしまっているところがあります。

(と、書いてしまうと誤解を招きそうですね。ご自身のことだろうかと感じた方、多分違います。そう気に掛ける方は私に不審を招かないと思います。)

(あと、野党議員の中で類稀に優秀で誠実な方の取り組む姿勢も見ています)

 

そして依然は野党議員に意見や質問を送っていましたが、焦りもあり、なんとか状況を変えれないだろうかという思いから、ここ数年は与党議員の方に手紙を書くことが多いです。

 

施行されてしまった国旗損壊罪法ですが、その13日の空気に(人や社会ではく空や風の自然物に)、何か気配が切り替わってしまったような不穏な色合いを見ました。不穏な道筋の岐路に、一歩踏み込んでしまったのだなという感覚がありました。

 

しかし、私たちは諦めることは許されませんよね。再びこの地を、戦火に落としてはいけない。人間の感情や思考が交わされるときに到達し得る豊かな世界の可能性を忘れ、欲望に倫理を蝕まれた者の策略に無抵抗に落とされて、隣人の命や社会を奪う訳にはいかない。

 

あなたが理不尽さに悔しく思うことなく、非道な脅威に意識を擦り減らすことなく、平穏に生きれることを願っています。

(なんだか他責な表現でごめんなさい。願うだけでなく、動かなくては、ですね。)

 

私はあれから言葉を辿ることに急いでしまって… もっと落ち着いて丁寧に読めばよかったのですが、先日その不穏さを肌で感じたことから焦りがあり、新しい一冊を読み終えて、書かなくてはならないと思っていた手紙を書いたのでした。それで少し思考が休息を求めて、いま、この日記が乱雑な者になっている自覚があります。ごめんなさい。

 

日が空くかもしれませんが、つづきを書きます。

健康に生きましょう。また。

このところ、何かを訴える手紙しか書いていない。

それも含めて、何かを言葉にすることの意味を見失いつつある。

自分自身は他者が残した言葉に救われ、希望を見ているというのに。

 

いま読んでいる本に中で、別の本から引用された言葉に、“「世界への信頼」と呼ぶものを失う”という言葉があった。近年で私たちが遠くから僅かな自覚を持って目撃している、国際社会と呼ばれるものが非常に脆い存在であることが示されているように、ガザに居る人々が感じているであろう途方も無い理不尽さと、それを許容する世界は、このときの、当時の人々が感じたものと等しいのではないかと想像する。

 

現時点で、私は彼らの抱くその絶望を形づくるひとりであり、希望を見出す力に成れていない。

何度も繰り返し届けた言葉は、複数の議員にどのように届いているのだろうか。

一市民の私が漠然とそう思うよりも、市議会議員或いは国会議員そして政府野党議員という立場で且つ現状に疑問を抱いている人がもしおられるならば、どのように現状を変えていったらよいのかの、途方も無さを感じているのかも知れない。或いは、一種の閉鎖空間のように、切迫した危機である事態を捉えない催眠状態であったりするのだろうか。

 

私は若い頃から、苦しみや怒りを忘れ、忘れなくても切り離して楽しむことを得意として、全てを失ったような悲しみに立ち竦み泣き叫び夜中に地面に縋り付いたとしても、朝を前に自分に抱き起され、翌日は昼日を浴び風を感じ鼻歌ったりして過ごした。

そんな私でも、いま、明るい歌が聴きたくない。いや、聴くこともあるが、以前のように抵抗なく楽しむことができない。というより、虐殺について一言も触れない者たちの言葉に、震えない。日本の現状から目を逸らし歌う者の言葉に、震えない。拒絶反応すらある。

 

とはいえ、自分の気持ちを持ち上げとようと、いまでも鼻歌を歌い、菓子を食べ、この身を癒し保とうとする。そうした時間を持てば持つほど、明日をも知れぬ状況を生きる彼らへの裏切りであるとも感じている。

国会の審議が深刻であるがために、無理矢理にでも言葉を連ね届かせようと動いて、体力的に無理だったのか、ひっくり返ってしまい(文字通り、三半規管がやられたようで、歩こうとする度にひっくり返って壁や床に激突した)、短期間だが入院する羽目になったのは5月の終わり。

多額の医療費を支払う羽目になり、こんなことならもっと休息を持って、別にお金を使えばよかったと考えてしまい、この体験を言い訳にして以前よりも休む機会を増やしてしまっている。

 

このとき病室から書いた手紙は中途半端な予告になってしまい、そのつづきを書けないまま、別の議員と記者とに手紙を宛てることに時間を使ってきた。

 

私は派遣やアルバイトで収入を得ながら、細々とデザインをしたり個人で表現活動をしている身なので。

本来ならば誰もが受け止めやすい内容で言葉を選び、それぞれの媒体へ向けて表現を選び、心地よい宣伝をするべきなのに、そう心掛けたときもあるけれど、申し訳ない、いまこそそれが、できずにいる。

 

日頃たいへんお世話になっている、梅の木十条店さんで、手作りの焼き菓子が販売されているが、焼き菓子はお持ち帰りもできるということを宣伝したく、店長さまとご相談しながらチラシを作ったり、ミニ看板を作ったりした。

次の投稿か、次の次の投稿かに、それを載せようかと思う…

 

二十歳の頃、私は世界を敵にしたが。

(私にとっての真実の証言者は私しかおらず、理解者はいないことを理解した)

 

だから他者に肯定的に向き合われることを想定しなかった。

無知な私は何も学ばず、予測せず、ある講演で単に話を聞こうとして、講談者から温かい眼差しを受けた。時が経つにつれ、その一瞬を思い出す。あの肯定的な眼差しを、思い出す。

世界の理不尽の証人であり、歴史的理不尽の痕跡から目を反らず辿った人であり、警鐘を鳴らしながら人間の愚かさから目を離さずにいた人だった。

当時、といっても数年前、そのようなことをまったく知らずに、名前も知らずに、ただその場にいただけの私だった。

しかし、あれからずっと、あの眼差しに守られている。


 

私は怠惰な人間なので、歴史的大虐殺を前に何とかして事態を止めようと手段を検討し、街頭に出たり大使館前に行ったり外務省前に行ったり防衛省前に行ったり議員に手紙を書いたりしながらも、税金の高さに怒りを覚えながら支払いに追われ時給勤務に時間を費やし、労働に時間だけでなく体力も奪われて、抵抗がスローペースになってしまう。

 

私がそうして何もできずにいる間も、店頭でのスペースを貸し出してくださり、梅の木十条店の店長さまやスタッフさんが支援企画の物販対応をつづけてくださっている。

ずっと報告できないままで申し訳ない。

 

ハードカバーのミニ冊子で紹介しているnoteを書いた支援者の方々も、私がこうしている間も、途方もない気力と労力を費やして友人たちを支えつづけている。

 

個人寄付については色々な考えがあることを、僅かながら耳にしている。

それぞれの考えが尊重されるべきであることを理解する。

しかし、私の考えるところ、というより本能的に受けとめるところからすると、支援者たちの姿は最も人間らしく、正しいと思えてならない。

加害側に資金が渡ってしまわないかであったり、詐欺ではないかという疑念に対して、支援者たちは非常に細かに誠実に確認を繰り返し対処している方々という印象を受ける。

 

日本社会が年金基金や装備品購入或いは武器購入やシステム開発等で加害国に資金を回してしまっている現状がある限り、一般市民という立場で誠実な対応をつづけている方々を非難する言葉は存在し得ないのではないかと考える。

 

そして、やはり本能的なところで、その姿勢に気付かされるものがあるように感じる。

“彼らは、募金とかそういうことではなく、実際に私に近付いてくれた” というある人の言葉を思い出す。(文言詳細はうろ覚えで正確ではないかも知れません)

 

社会の痕跡、文化文学の歴史、民俗が破壊されているときに、人間が破壊されているときに、人間同士で言葉を感情を交わすことは、破壊に対する抵抗であり、彼らを人間として肯定することであろうかと思う。

 

人との関わりが苦手な私には、それができない。

そのため、この途方も無いアプローチでありながら、ごく自然に感情を言葉を交わし合う支援者たちの姿勢、在り方は、とても正しいものだと感じる。

尊敬に値すると思う。

 

8月は言葉が震える月だと感じるこの頃。

昨年につづいて、(いえ、ずっと言葉は投げかけられてきたのだと思いますが、私が、私たちが受け止め方を変えたのかも知れません) 広島、長崎と平和祈念式典においての、県知事や市長や市民の言葉が、心を震わせる。日本に、世界に、鳴り響いている。

事態に向き合い、真剣に真摯に言葉で訴えかけてくれて、ありがとうございます。

それぞれの言葉を、スピーチ全文を公開してくれた報道機関、ありがとうございます。

 

人間は、想いを形にし、言葉を震わせ、未来を築くことができるのだと、教えてくれているようです。

 

私たちはその灯を、震わされた心を手懸かりにして、明日へと繋ぐことができる。

この道を絶やさず、明日へ。