まつりごと 14 | View of the grico ―グリコのいる風景―


私事ですが、歳をとるにつれてか、週5で勤めに行くのが億劫になりつつあります。

もともと会社勤めが好きではなく自由を追求する生き方をしてきたので余計にそう感じるのかも知れません。

自由を追求するのはボクに限らず、恐らく誰もが思う思想というか希望のようなものであると思っているので、

人それぞれに自由という概念も違ったものだとも思っています。

その自由の基礎的部分というのか、抽象的ですが生きやすい環境というものがあって初めて自由を求める考えになるのかな?とも思っています。

政治というのはその国民それぞれが求める自由を偏りなく均等に実感できるように道すじを作っていくことなのではないか、

というボクの考えが正しいか否かは今回置いといて、正しいと仮定して話しを進めると、

まず、自由というものは手放しで、他人任せでは実現できるものではない。

そして何もしないで楽に得られるものでもなく、それなりの努力も必要である。

と考えています。

何億人という人が地球上で生きているワケですから、それぞれに違った形の自由を求めて生きていれば、時には摩擦もあるのは当然といえば当然かも知れません。

気候、文化、風習、言語の違いから、国とか地域という大きな枠組みのコミュニティができて、その国の中から県とか町のコミュニティと、細分化されながらコミュニティを形成して一定のルールの中で人々が暮らすのが現状の世の中。

これは多くの人々が暮らす世の中で自分勝手というか、利己的にならず共存していくという、いちいち口に出さなくともそうあるべきと、認め合った暗黙の了解的なものではないかと考えてます。

間違えやすいのは自由は何でもありみたいな利己的な考えで、コミュニティが機能しなくなる原因でもあるのかと思ったりもします。

それらを機能的に、言い換えれば潤滑油のような存在が政治であるのかな?

と思っています。

だから、選挙に立候補する人は、人々の代表として政治に参加するのだから、人々に受け入れられるような公約を口にする。

それができるできないは別と言わんばかりに、人々が"できるといいな"と思うことを口にする。

公約は絶対果たされるものではないのに、果たされる。と勘違いして、

耳障りのいい公約を口にした立候補者に投票してしまう。

公約通りの結果がでなければ、騙されたとか、アイツは嘘つきだなどと罵る。

期待するのはいい。

でも騙されるのは期待した側にも問題がある、と認識し反省しなければ何度も同じ手に引っかかるし、進展などない。

政治を政治家だけの仕事として丸投げして、自分とは関係ないとか、よくわからないと嘯いているから、政治家がだんだんと利己的になってしまう。

結局、政治というものが本来、誰のためのものかと考えれば簡単に判るものなのに、

任せっきりにして他に気を取られているから出し抜かれてしまう結果になるということを、特に今は再認識しないといけない時期ではないか。

ひょっとしたらもう手遅れかも知れないが、現状の政治ほど腐敗した政治はないとボク自身は感じているが、

かと言って諦めて放置すればさらに悪くなるのが判る気がする。

政治に限らず、自由を求めるという基本概念があるなら、自分の身の回りのあらゆることを他人任せにして、楽なほうにばかり身を寄せていく生き方は、

結果的に自由を得られないばかりか、自由を奪われ自分以外の人に言われたことにだけ従って生きることになる。

騙されないためには、他人に面倒なことを丸投げしない、ある程度のことは自己完結できるような努力をする。

その上で政治に参加する。

政治は政治家だけの仕事ではないということを考え直してみませんか?