惑わされないための見直しタイム | View of the grico ―グリコのいる風景―


1ヶ月以上空けてしまいました。

国内におけるいろんな問題が多すぎて、情報について行けないでいました。

で、ようやく追いついて、

ともいかず、

このやたらとハイペースで進む時流に、どう対処すべきか、

自分はもはや時流に取り残されてしまうのか、

などと、半ば焦りにも似た切迫感を感じながらも一旦、

行く足を止めてみました。

というのは何も、引きこもって俗世から自分を隔離したワケでなく、

単純に日々のルーティン化した生活を、わざと停滞させてみた、といった感じです。

朝起きて、支度をして、決まった時間のバスに乗り、決まった時間に仕事に向かい、決まった時間に帰宅して、

夕方、ひとりの部屋に戻った瞬間、いつもなら部屋に灯りを点けて、パソコンとテレビの電源を入れ、明日の準備をしながらのほんの数時間の自由な時間を過ごすところを、

靴を脱いで部屋にあがり、肩からリュックを下ろしてそのままベッドに倒れ込む。

部屋の灯りもテレビもパソコンも点けないまま、薄暗い部屋のベッドに横たわり、天井を眺めながら、ひたすらぼ〜〜〜っとする。

なんか大事な用でもあったっけ?

なんか買わなきゃいけないものあったっけ?

洗濯?着替え?明日の準備?

考えるだけでぼ〜〜〜っとし続ける。


無難に、できるだけ合理的に、ハイピッチでいろいろこなしたつもりで、獲得した僅かな空き時間。

そんな僅かな自由な空き時間までもが、義務的に過ごさなければならないほど精神的に切迫しているようでは自由な空き時間さえもがホントの自由ではない気がして、

ルーティンという見えない、自分に課した拘束を、自ら放棄してみた感じ。

その日の夜はそのまま朝まで途中目覚めることもなく熟睡した。


数年前から感じていたことだけど、
この頃特に生きづらさというか、見えない何かに無理矢理生かされているような、

自分の意思とは裏腹に違う方向へ進まされているような、釈然としない日々が続いていて、

結果、ホントに自分がやってみたいことなんかがずっと後回しになっていて、未だやれていない現実に気がついた。


これじゃダメだ、と思いはしたものの、じゃあ何故にそうなったのか、どうすればいいのかと自問自答したところ、

自分のペースで生きられていないことが理由ではないかと不意に思った。

決められた時間、決められたルール、どちらも自分以外の外圧のようなもの。

時間もルールも場合によっては必要だけれど、自分の自由な時間くらいは制限なく自分のペースで過ごさなければ、ストレスになるだけで得るものはない。

と、ちょっと大袈裟だけどそう思った。


規則とか、ルールとか、モラルとか、
組織や集団のなかではどれも不可欠だとは思うが、24時間、四六時中それに縛られるように生きていては自分か自分じゃなくなるような気がして、

ついでに目まぐるしい情報の量と変化に惑わされないように、情報収集も一旦止めて、

暗い寝室で、無音状態で全てを放棄。

プチリフレッシュをしてみた感じ。

生きるうえではルールやモラルや規則も必要、情報収集も然り。

ではあるけど、それらに振り回されるというか、惑わされて自分を見失っては本末転倒。

やっぱりちゃんと生きるためには、バランスが必要で、

バランスを保つには時にリセットも必要だとそう思った。


自由とか、自分らしさを求めるが故に、
自由を損ない、自分らしさを見失っいてはどうしようもないことを悟った。