たそがれ館へようこそ -17ページ目
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道場には凛とした空気が張り詰めていた。
老師は穏やかな表情で
「まず皆の稽古の様子を見てみたい」
と言い、後方に下がった。
自分の番を待ちながら
耀は老師の存在が気になって仕方がなかった。
ふと気が付くと
老師が耀の真後ろに移動していた。
全く気配を感じさせない。
衣擦れの音さえしなかった。
これが達人の技なのか。
耀が横目で盗み見ると
老師はニヤリと笑った。
豊かな白い蓬髪(ほうはつ)と
あごひげが珍しいらしく
幼い門下生が無邪気に
「先生は何歳なのですか」と尋ねた。
老師は「武術を歩む者に年齢はないんだよ」
と静かに答えた。

門下生たちの稽古が一通り終わると
「それでは老師、お願いいたします」
と叔父が声をかけた。
皆の視線が一点に注がれる中
老師が一歩踏み出すと
しなやかな動作がまるで風の流れのように広がった。
道場の中央に立った老師は
軽く膝を緩めて腰を落とし
掌を構えてお臍(へそ)の下の「丹田」に
意識を沈める。
気を練っているのだ。
老師は両の手のひらで
見えないボールを作り何度も転がしていた。

――ふと、老師の体から
白い煙がゆらゆらと立ち昇ったように見えた。
それは耀の目にだけ映った幻覚だったのだろうか。
「老師にこれから『気』の力を見せてもらう。
誰か立ち向かってみる者はいないか」
叔父の呼びかけに
門下生たちはお互い顔を見合わせていたが
一人が意を決して進み出た。

「ハッ!」という鋭い気合いとともに
門下生が踏み込んだ、その瞬間だった。
老師が静かに掌を前へと押し出す。
気を発した瞬間
穏やかだったその眼光は鋭く光り
しなやかな挙動が周囲の空気を震わせた。
門下生は、見えない壁に阻まれたかのように
その場で硬直した。
必死に抗おうとする表情とは裏腹に
足一歩さえ動かすことができない。
圧倒的な「気」の圧力に
完全に動きを封じ込められてしまったのだ。
続いて「我こそは」と
腕自慢の者が勢いよく躍りかかったが
老師がひとたび気を放つと
彼は見えない衝撃に弾き飛ばされた。
まるで分厚い壁に衝突したかのように
凄まじい勢いで後方へと転倒する。
その場にいた全員が
言葉を失い圧倒されていた。

JackieLou、 PixabayよりDL
耀は熱い鼓動を感じながら
心の中で密かに誓った。
いつの日か必ずこの老師に弟子入りしよう。
武術の奥義を究めてみせると。
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耀の子供のころと言えば
学校と剛英叔父が主宰する
中国武術道場「翡翠館」との
往復の毎日だった。
「勉強は耀、武術は浩だね」
これが親戚の一致した意見だった。
特に塾などに行かなくても
勉強は小さいころから得意だった耀。
両親とも聡明だったため
その血を受け継いでいるのだろうと
親戚は耀の成長を期待した。
道場「翡翠館」は
いとこの浩と一緒に通っていたが
やはり剛英叔父の子というだけあって
浩の方が素質があったのか
上達が早かった。
耀の武術の腕前は
同年代のこどもたちの中では
真ん中ぐらい
可もなく不可もなくといったところだ。
毎日欠かさず道場に通い続けていたが
なかなか上達の兆しは見えず
時には嫌気がさすこともあった。

UnsplashのMiranda Richey
試合のチーム分けではいつも二軍扱いで
期待されていない分、気楽ではあったが
心の奥では悔しさが燻っていた。
ところが本番になると、不思議と落ち着き
普段以上の力を発揮することができた。
試合でいつもトップの成績だった子が敗れ
悔し涙を流す姿を目にしたとき
耀の胸に小さな火が灯った。
「自分も、もう少し頑張れば
いけるのではないか」
そう思った耀は
再び練習に精を出すようになった。
だが、努力を重ねても伸び悩み
目立った進歩はなかなか見られない。

UnsplashのVincent Tint
そんなある日
一人の老師との出会いが転機になった。
「先生が来るぞ」
「先生だ」
その日は道場がざわついていた。
「先生が山から下りていらっしゃった」
急に訪ねてくることになったらしく
いつも冷静な叔父ですら
落ち着かない様子だった。
山から下りてきた?
山にこもって修行をしているのだろうか?
耀はどんな偉い人が来るのだろうと
思ってワクワクして待っていたら
拍子抜けするほどの普通の老人だった。
強いて言えば
仙人のような長い白髪の蓬髪と
老いているわりに
脚に力があるところがいかにも
武術の達人らしい。

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二週間ほどして
耀はもう一度所長室に呼ばれた。
「心は決まりましたか?」
耀は意味がわからず
ぽかんとした表情をしていたのだろう。
「この前、考えておきなさいと
言ったじゃないか」
「あの、……どういうことでしょうか。
詳しく教えてください」
「他の職員が君と一緒に
働けないって言うんだ」
「……それは」
「つまり君には
退職してほしいということだ」
耀は唖然とした。

鰐口は「あいつを辞めさせてください」
と所長に直談判したのだ。
たぶん日和田も加勢しただろう。
所長には自分の意思というものは
あるのだろうか。
所長は今まで真面目に働いていた
自分のどこを見ていたのだろう。
「所長は自分を守ってくれない」
と言った日和田の言葉を思い出した。
ここまではっきり言われたのなら
しょうがない。
もう潮時なんだ。
所長はその後、以前先輩が辞めた時より
多額の退職金を耀に払うように手配させた。
鰐口はこれが大いに不満だったようだ。

所長も耀に落ち度がないことは
わかっていたけれど
ベテランの鰐口が強硬に主張するので
どうしようもなかったのだろう。
退職金は所長が示せる
最大限の誠意なのだが
耀はお金をもらっても別に嬉しくなかった。
もっと、もっと長く働きたかった。
ここで経験を積みたかった。
そのつもりだったのに。
でも耀には帰る場所がある。
この会計事務所を辞めたとしても
受け入れてくれる温かい居場所がある。
中華街にある実家の「らーめん亭」だ。
「君の仕事は
僕が引き継ぐことになっているので
ちゃんと引継書を書いておいてください。
そして連絡先も」
と日和田は事務的な口調で言った。
事務所を辞めて実家に戻ると
耀には穏やかな日々が戻った。
子供の頃から知っている
親戚のみんな、中華街の仲間。
周囲には、もはや出し抜いたり
策略をめぐらしたりする者はいない。

それから半年ほどして
前の職場の給与証明書が必要になり
事務所に連絡した。
電話に出たのが全く知らない声だったので
ふと気になって尋ねた。
「鰐口さんはいますか?
………日和田さんは?」
半年のうちに二人は既に辞めていた。
耀が辞めるという犠牲を払ったあとでも
バトルは終わらなかったのだ。
鰐口の敵愾心は相当なものだった。
二人は今ごろどこで
何を思っているのだろう。
日和田は、耀から離れて
鰐口側についたことを少しは
後悔しているのだろうか。
次回から章が「開口笑」に変わり
舞台は中華街となりますが
お話は続きます。

