自然の中での修行が

一週間ほど続いたある日のことだった。

 

 

「先生。これ以上

実技は教えてくださらないのですか?」

耀は思い切って尋ねた。

 

 

老師は薪を割る手を止めずに答える。

「実技なら十分だ。

おまえは秀英の道場の門下生だったな」

「はい」

「あれはたいした男だ。

その下で修行した者に

私が教えられることなど多くはない」

 

 

耀はしばらく黙っていたが

やがて意を決したように口を開いた。

「恐れながら……

先生が身につけておられる気の術を

ぜひ私にもお授けください」

 

 

薪を割る音が止まった。

老師はゆっくりと耀を見た。

「奥義は危険なものだ」

静かな声だった。

 

 

「そう簡単に教えられるものではない。

私のような世捨て人ならともかく

市井に生きる若者が

軽々しく関わるべき力ではないのだ」

 

 

耀は黙って聞いている。

「いいか。

大きな力を得るということは

必ず何かを差し出すということだ」

老師は斧を地面に立てた。

 

 

「苦痛かもしれん。

時間かもしれん。

あるいはもっと大切なものかもしれん。

力には代償が伴う」

 

 

耀は拳を握った。

「それでも構いません」

老師の眉がわずかに動く。

「代償を払ってでも、その力が必要なんです」

 

 

「なぜだ」

短い問いだった。

耀は答えない。

しかし、その目だけは揺るがなかった。

 

 

老師は深く息を吐く。

「どうしてそこまで自分を追い込もうとする」

耀はなおも黙っていた。

「犠牲を払う覚悟があるというのか」

 

沈黙。

 

「それとも……よほどの事情があるのか」

耀は何も言わなかった。

だが、その瞳の奥には

決意の光が宿っていた。

老師はその目を見つめたまま

しばらく考え込んでいた。

 

 

 

中華街の「林花亭」。

昼の繁忙時間をようやく乗り切り

店内には束の間の静けさが戻っていた。

 

 

「もう一週間になるわね……

お兄ちゃんが出て行ってから」

麗華は椅子に腰を下ろし

大きなため息をついた。

 

 

「耀はああ見えて

一度決めたら一直線なんだ。

止めても無駄だったよ」

浩も疲れた様子で答える。

 

 

「アルバイトさんに

来てもらっているけれど

それでもぎりぎりだわ。

正直、とても回らないの」

 

 

「……わかってる」

浩は申し訳なさそうに目を伏せた。

 

 

「だったら連絡してよ。

もう帰ってきてって言えないの?」

「それが……」

浩は言葉を濁した。

「行き先は分かっている。

でも、麗華ちゃんには

説明しづらい場所なんだ」

 

 

「何それ」

麗華の眉がつり上がる。

「そんな言い方されたら

余計に気になるじゃない」

 

 

「ごめん。でも耀にも事情があるんだ」

「事情、事情って……」

麗華は机に肘をつき、顔を背けた。

「結局みんな、お兄ちゃんの味方なんだから」

 

 

浩は返す言葉を失った。

店を守るために修行へ行った耀。

その理屈は分かる。

だが、残された側にも苦労があるのだ。

 

 

「いいわ」

麗華は立ち上がった。

「私は私で何とかするから。もう頼まない」

「何とかするって……」

浩が聞き返す。

 

 

麗華は振り向かずに心の中で答えた。

(金猫堂にお参りに行ってくるの)

 

 

「これも擬態だよ」

「え?」

「蛇ではない。

ビロウドスズメという蛾の幼虫だ」

耀は目を凝らした。

確かに、よく見れば蛇ではない。

 

 

「驚いたり刺激を受けたりすると

胸部を縮めて頭を大きく見せる」

老師は手振りを交えて説明した。

「そして目玉のような模様を強調することで

小型の毒蛇に見せかけるのだ」

 

 

耀は感嘆の声を漏らした。

「本当に蛇にしか見えませんでした」

老師はうなずいた。

「見た目に惑わされるな。

自然界では、見えているものが

真実とは限らないのだから」

 

 

二人はやがて

ゆるやかな流れの川が広がる

河原へたどり着いた。

水辺には背の低い草むらが

点々と生えている。

 

 

 

老師がここへ連れてきたということは

この場所にも何か

学ぶべきものがあるのだろう。

耀はそう考え

草むらや足元に注意を払いながら

慎重に歩いた。

 

 

すると突然、耀が声を上げた。

「先生、分かりました」

「ふむ、何だね」

「あそこです。

ニホンアマガエルがいます」

 

 

UnsplashErda Estremera

 

 

耀が指差した先

葉陰に小さな緑色の影が

じっと身を潜めていた。

「初級は何とか突破できたようだな」

 

 

耀はそっとアマガエルをつまみ上げ

掌に乗せた。

小さな体は驚くほど軽く

つぶらな瞳が愛らしい。

「草の茎や苔むした石に同化して

動かぬアマガエルは

観察力を養うには格好の教材だ」

「はい」

耀はうなずいた。

「では、河原を歩いてみよう」

 

 

二人は川沿いを進んだ。

手つかずの自然が残る河原には

ごつごつした石や尖った石が

無数に転がっている。

 

 

厚底のスニーカーを履いていても

耀の足裏には石の感触が伝わってきた。

 

 

前を歩く老師が言う。

「こうした不安定な場所では

重心の置き方と体重移動を

常に意識するのだ」

 

 

 

しばらく進むと

今度は丸みを帯びた小石が広がる

砂礫地へ出た。

耀は少し安心し、一歩を踏み出した。

その瞬間だった。

 

 

足元の石ころが、一斉に弾け飛んだ。

バチバチバチッ――。

四方八方へ飛び散る無数の影。

耀は思わず身を引いた。

「えっ……何だ?」

 

 

荒い息をつきながら足元を見る。

石だと思っていたものが

次々と着地している。

そこでようやく気づいた。

「バッタ……?」

 

 

それはカワラバッタやクルマバッタ

トノサマバッタだった。

河原の石と見分けがつかないほど

巧妙に擬態していたのである。

 

 

老師は静かに言った。

「バッタたちは

ただそこにいただけだ」

耀は耳を傾ける。

「お前の気配と足音が

あいつらに死の恐怖を与えた。

だから跳ばざるを得なかったのだ」

老師の声は低く、重みがあった。

 

 

「自然の中で己の存在を

消すことができなければ

本当の意味で周囲を観察することはできない。

忍び足もまた修行の一つだ」

 

 

耀は足元の石を見つめた。

つい先ほどまで

何もいないと思っていた場所に

これほど多くの命が潜んでいたのである。

森でも河原でも同じだった。

 

 

自然の中には

巧妙に身を隠して生きる命が

無数に存在する。

耀は、それを見つけるためには

目だけでは足りないことを学び始めていた。

 

 

 

「気は目に見えない。

気を呼び込むには体全体で感じるしかない」

老師は歩きながら言った。

「つまり、五感を使うということだ。

感覚を研ぎ澄ませなさい」

 

 

ある日、老師は耀を庵の裏手に広がる

森の奥深くへ連れて行った。

鬱蒼と茂る杉や広葉樹。

幾重にも重なる木漏れ日。

足元に積もった枯れ葉の匂い。

 

 

深い静寂に包まれた森の中で

耀は久しぶりに

心が洗われるような気持ちになった。

胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込む。

 

 

「さて」老師が立ち止まった。

「何か気づいたことはあるかな?」

「えっ?」

耀は辺りを見回した。

そこには苔むした樹木が

立っているだけに見える。

 

 

「景色に溶け込んで隠れているものがある。

何か見えるか?」

耀は言われた方向へ近づいていった。

その時だった。

 

 

樹皮の一部だと思っていた場所に

黄色い目が見えた。

細く閉じられていた目が

こちらを見つめている。

思わず引き寄せられるように近づく。

すると、その目が突然ぱっちりと開いた。

 

 

「あっ!」

耀は思わず後ずさった。

その瞬間、足元の枯れ葉が

爆ぜるように舞い上がった。

ばさばさっ――。

何かが飛び立ったのだ。

 

 

耀は驚きのあまり尻もちをつきそうになった。

その様子を見て老師は愉快そうに笑った。

「今のは何ですか?」

「最初の目はオオコノハズク。

そして飛び立ったのはヤマシギだ」

老師は楽しそうに答えた。

 

 

「お前は目の高さばかり見ていた。

だから足元のヤマシギに

気づかなかったのだ」

耀は周囲を見回した。

確かに、気づかなければ

枯れ葉と見分けがつかない。

 

 

「目の前だけではいかん。

足元も、頭上も、背後もだ」

老師の声が少し厳しくなる。

「全方向に注意を向けなさい。

わずかな油断が命取りになることもある」

 

 

「なるほど……」

耀は感心したようにうなずいた。

「枯れ葉とまったく同じ色に見えました」

 

 

「自然の生き物は

人間が思う以上に巧妙だからな」

老師は再び歩き始めた。

「オオコノハズクも昼間は

樹木に溶け込んでいる。

天敵のカラスなどに

見つからぬようにするためだ」

 

 

耀は先ほどの目を思い出した。

「でも、ちゃんとこちらを見ていました」

「完全に眠っているわけではないからな。

薄く目を開けて周囲を観察している」

老師は微笑んだ。

「生き残るために、隠れることを覚えたのだ」

 

 

やがて二人は森を抜け

水辺へ続く明るい山道に出た。

ヤブガラシや蔦の絡まる木立の脇を

通り過ぎようとした時

今度は耀の足が止まった。

 

 

「どうした?」

「蛇です」

耀は木の枝を指差した。

「小さいですが

近づくと危険かもしれません」

 

 

それは鱗のような模様があり

頭部も三角形に膨らんで見える。

いかにも毒蛇らしい姿だった。

しかし老師はまた笑った。

「これも擬態だよ」