生そのものを、生そのままに肯定する在り方。
たとえば、禅宗でいえば「末後の句」という言葉があります。
これは、「末期の句」ではありません。
そして、これは、先生と生徒とでいえば先生の側が自覚する問題です。
世の概説書にいくつかのパターンが認められますけれども、どうもそのどれもに一理あるというのではなく、錯誤も認められるので要注意です。
生そのものを、生そのままに肯定する在り方。
たとえば、禅宗でいえば「末後の句」という言葉があります。
これは、「末期の句」ではありません。
そして、これは、先生と生徒とでいえば先生の側が自覚する問題です。
世の概説書にいくつかのパターンが認められますけれども、どうもそのどれもに一理あるというのではなく、錯誤も認められるので要注意です。
専門家は専門において解答を提出して去るのです。
それが優良なものならば、模範解答を提出して去るということになります。
河上徹太郎氏は、晩年にヴァレリーを読みかえし、我々は海の波の泡と同じだ、という見解を最後に打ち出して去りました。
そのようなものが先にあると、後に続く者は、さらに進まなくてはならなくなります。
しかし、それでよいのだと思います。